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ギュンター・ジッツォ・フォン・ロイテンベルク(Günther Sizzo Prinz von Leutenberg)、1896年よりギュンター・ジッツォ・フォン・シュヴァルツブルク(Günther Sizzo Prinz von Schwarzburg, 1860年6月2日 ルードルシュタット(Rudolstadt)- 1926年3月24日 グロースハルトハウ(Großharthau))は、ドイツの旧諸侯シュヴァルツブルク=ルードルシュタット(Schwarzburg-Rudolstadt)家の侯子。1925年にシュヴァルツブルク家(Haus Schwarzburg)の家長となった。 == 生涯 == シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯フリードリヒ・ギュンターとその2番目の妻であるアンハルト=デッサウ公女ヘレーネ(1835年 - 1860年)の間に、男女の双子の片割れとして生まれた。双子は父親からロイテンベルク侯子(Prinz (und Prinzessin) von Leutenberg)の称号を与えられた。双子の姉のヘレーネ(1860年 - 1937年)はシェーナイヒ=カロラート(Schoenaich-Carolath)侯爵家の侯子ハンスと結婚した。 ジッツォの地位をめぐる問題は非常に錯綜していた。母親のヘレーネはアンハルト公レオポルト4世の弟ゲオルク(Georg von Anhalt-Dessau)が貴賤結婚でもうけた娘で、ライナ伯爵夫人の称号で呼ばれていたが、1855年にフリードリヒ・ギュンターとの結婚に際し、叔父のヴィルヘルム(Wilhelm von Anhalt-Dessau)の養女となってアンハルト=デッサウ公女を称した。しかしジッツォの両親の結婚もまた貴賤結婚と見なされ、ジッツォはシュヴァルツブルク侯家の正式な一員と見なされず、侯家の正統な男子相続者が絶えた場合のみ、彼とその子孫に侯位継承権が生じるものとされた。 母ヘレーネはジッツォと姉を出産した直後に死去し、父もジッツォが7歳の時に死去した。父が前妻との間に3人の男子を儲けているが、いずれもジッツォの誕生前に死去し、子孫もいない。ジッツォは父よりハルトハウ(Harthau)とゴルトバッハ(Goldbach)の所領を相続した。また1875年に地元の教区監督より堅信礼を受けている。1880年にプロイセン軍に入隊し、ブレスラウ(現在のポーランド領ドルヌィ・シロンスク県ヴロツワフ)駐屯の第1胸甲騎兵連隊(Leib-Kürassier-Regiment „Großer Kurfürst“ (Schlesisches) Nr. 1)に所属し、翌1881年には少尉に任官した。1887年にはブリュッセルのプロイセン大使館付きの陸軍武官に転属となり、こちらではシュヴァルツブルク侯家から使用を認められていない「殿下(Durchlaucht)」の敬称で呼ばれて問題になった。 ルードルシュタット侯の地位は、叔父のアルベルトが継承し、さらにその息子のゲオルク・アルベルトが受け継いだ。1890年には、分家筋のギュンター・ヴィクトルが侯位に就いている。 ジッツォの又従兄にあたるギュンター・ヴィクトル侯は、1890年に侯位に就いてまもなくジッツォをシュヴァルツブルク騎士団(Schwarzburger Orden)の騎士に叙任した。同年、ジッツォはハルトハウとゴルトバッハの所領が経営難に陥っているとの報告を聞き、軍隊を離れて1892年10月にはハルトハウに帰った。ジッツォは以後の約10年間をハルトハウの町の再生に尽くし、ほぼ全ての街の建造物を増改築し、1900年には町の除幕式を行っている。ジッツォは1899年、町に地元のキフホイザー山地に因んだ「キフホイザーへ(„Zum Kyffhäuser“)」という名前の旅館を建てたが、これは現在も旧シュヴァルツブルク侯国の領民の子孫たちに記憶されている。 1896年6月2日、ジッツォはシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯家の継承権を認められ、称号も「ロイテンベルク侯子」から「シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯子」に改められた。しかしシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン(Schwarzburg-Sondershausen)侯家はジッツォの継承権認定を承認しなかった。1896年6月18日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)とドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を顕彰したキフホイザー記念碑(Kyffhäuserdenkmal)の除幕式が行われた際、ジッツォはプロイセンの赤鷲勲章(Roter Adlerorden)の一等勲章を受けた。 1897年1月25日、ジッツォはデッサウにおいて、アンハルト公フリードリヒ1世の末娘で又従妹にあたるアレクサンドラ(1868年 - 1958年)と結婚した。夫妻は新婚旅行の後、1897年3月22日にグロースハルトハウの領地に戻った。ギュンター・ヴィクトル侯に子供が無いため、ジッツォは侯位継承者に指名された。 ドイツ革命の煽りをうけて1918年11月23日にギュンター・ヴィクトル侯が退位すると、ジッツォが君主となる望みは断たれた。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯家は1909年にすでに断絶しており、ジッツォは1925年にギュンター・ヴィクトルの後を継いでシュヴァルツブルク侯家家長となったものの、翌1926年には死去した。家督は一人息子のフリードリヒ・ギュンターが受け継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジッツォ・フォン・シュヴァルツブルク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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