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ジッロ・ポンテコルヴォ : ミニ英和和英辞書
ジッロ・ポンテコルヴォ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジッロ・ポンテコルヴォ : ウィキペディア日本語版
ジッロ・ポンテコルヴォ

ジッロ・ポンテコルヴォGillo Pontecorvo, 1919年11月19日 - 2006年10月12日)は、イタリア映画監督。『アルジェの戦い』(1966, 原題: La battaglia di Algeri, 英題: The Battle of Algiers)で1969年アカデミー監督賞にノミネートされ、また同作品でヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を獲得した。2000年にはヴェネツィア国際映画祭でピエトロ・ビアンキ賞を受賞した。
== その生涯 ==
裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、ポンテコルヴォは7人兄弟姉妹の中で育った。ポンテコルヴォの弟ブルーノ・ポンテコルヴォニュートリノ物理学の先駆者として国際的に知られた科学者である(第二次大戦後ソ連に亡命した)。ジッロ・ポンテコルヴォは映画監督脚本映画音楽まで兼ねていることがある。ピサ大学で化学学位を取った。彼はそこで政治的に対立している勢力のうち、最初は彼は左派の学生や教授グループに属した。卒業後、反ユダヤ主義の台頭で彼はフランスに逃れることになる。彼はイタリアの新聞の海外特派員としてジャーナリズムに入ることができた。
1933年パリで彼は映画の世界に踏み出すことになる。彼は数本の短編ドキュメンタリーを制作し、助監督を経験し、たとえば『美しい小さな浜辺』(1948)や『狂熱の孤独』(1954)を監督したオランダ人共産主義者イヴ・アレグレの下についたこともある。また、この時代にパブロ・ピカソイーゴリ・ストラヴィンスキージャン=ポール・サルトルのような様々な著名人とも交流をもち視野も広げた。特にスペイン内戦を戦った人々が多数友人となったのはとりわけ影響された。
ポンテコルヴォは1941年共産党に入党。彼は北部イタリアを旅しながら、反ファシストのパルチザンを養成し、変名を使っては1943年から1945年まで ミラノ市のレジスタンス運動のリーダーとして戦った。ポンテコルヴォは、1956年のソ連軍のハンガリー侵攻に失望して、共産党を脱党した。しかし彼は、マルキシズムへの関心はまだあった。彼曰く「私は駄目な革命家ではない。私は単に大勢のイタリアのユダヤ人と同様左翼に入っているだけだ」と。第2次世界大戦後イタリアに帰還し、ポンテコルヴォはジャーナリストをやめて映画製作に軸足を移した。それはロベルト・ロッセリーニの『戦火のかなた』に心うたれたからである。彼は16mmカメラを買い数本のほとんど自分が資本を出しドキュメンタリーを2本作った。1957年彼の初の長編映画である『青い大きな海』 (1957)を制作した。この作品では後の作品に見られるしっかりとした十分なスタイルを持っていた。この作品ではイタリアのダルメシアン海岸の小さな島での漁師とその家族について述べている。不漁に悩む漁師が不法にも爆弾を使って密漁をする話である。この映画は、カルロヴィ=ヴァリ映画祭で賞をもらった。ポンテコルヴォは時には数ヶ月または数年という月日をかけて、彼の描きたい社会的な状況を正確に描写するために時間を割いた。ポンテコルヴォの次の作品は2年間かけてナチスの強制収容所を舞台とした『ゼロ地帯』(1959)を作った。あらすじは、収容所から逃亡しようとする少女を描いたものだ。この作品は米国アカデミー外国語映画賞にノミネートされた。
『アルジェの戦い』(1966)は、アルジェリア独立戦争時のアルジェリア側の民衆の抵抗を描いた作品である。この作品はロッセリーニたちのネオ・リアリスモの影響を受けた作品で、ニュース画面のような映像とアマチュア俳優を使い、ほとんど普通のメディアから注目されなかった公民権のない民衆たちを主人公としている。この作品は米国本土でも一般公開され、米国アカデミー賞監督賞と脚色賞にもノミネートされた。この映画は、革命グループと同じくらい政府の戦略家をトレーニングするためのビデオとしても用いられている。この作品はアルジェリアでは凄い人気で、解放闘争の記憶としても残されている。
『ケマダの戦い』 (1969)は、アンティル諸島を舞台にマーロン・ブランドを主役に据えて、別の反植民地主義を主題とした作品である。しかし、この映画はそのメッセージ力を失っている。これは、プロの俳優たちが演ずる中でブランドが堂々としているが、『アルジェの争い』で見せたような本物の当事者が真剣に演じている迫力まで達していない。
ポンテコルヴォは、このあとドキュメンタリーを数本撮ったあと、1992年から1994年にかけてヴェネツィア国際映画祭のディレクターを務めた。
彼は86歳でローマにおいて死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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