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ジノ・ヘルナンデス : ウィキペディア日本語版
ジノ・ヘルナンデス

"ゴージャス" ジノ・ヘルナンデス"Gorgeous" Gino Hernandez、本名:Charles E. Wolfe1957年8月14日 - 1986年1月30日)は、アメリカ合衆国プロレスラーテキサス州ハイランド・パーク出身。1972年に日本で死亡したプロレスラー、ルイス・ヘルナンデス日本プロレスの『新春チャンピオン・シリーズ』に参戦中の1972年2月1日、巡業先のホテルにて心臓発作を起こし死去。ジノはルイスの後妻の連れ子で直接の血縁関係はない。〕は継父にあたる。
地元のテキサスを主戦場に、サンアントニオダラスの2大プロモーションを股にかけて活躍。プロレス界でも屈指のハンサム・ガイでありながら、持ち前の向こうっ気の強さを活かし、不良系のヒールとして名を馳せた〔『プロレスアルバム16 THE HEEL』P56(1981年、恒文社)〕。イタリア系とヒスパニック系のハーフであり、ハンサム・ハーフ・ブリードThe Handsome Half-Breed)の異名を持つ。そのキャラクターは、弟弟子ショーン・マイケルズのハートブレイク・キッドにも通底している〔ホセ・ロザリオは、もっとも優秀な教え子としてジノの名を挙げており、存命であればショーン・マイケルズ以上のレスラーになっていたとコメントしている。(『Gスピリッツ Vol.18』P27 / 2010年、辰巳出版、ISBN 4777808661)〕。
== 来歴 ==
亡父ルイス・ヘルナンデスの従兄弟でもあるメキシコ系アメリカ人のスター、ホセ・ロザリオのトレーニングを受け、テキサスサンアントニオ地区(後のSCW / サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)にて1975年にデビュー。その後、ベビーフェイスの新鋭としてザ・シークが牛耳るデトロイト地区で修業を積み、1977年1月8日にはブルドッグ・ドン・ケントを破りNWA USヘビー級王座を獲得した。同年はニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにも出場し、3月7日の定期戦にてジョニー・ロッズから勝利を収めている。
1977年の下期よりテキサスに戻り、フリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのNWAビッグ・タイム・レスリング(後のWCCW / ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング)を主戦場とする。翌1978年3月、全日本プロレス『エキサイト・シリーズ』に初来日。同シリーズ後半戦にはリック・フレアーが特別参加しており、後のキャラクター形成に大きな影響を受けることとなる。
以降は"ゴージャス・ジノ" を名乗り、フレアー・タイプの色悪系ヒールに転向。ダラス地区のフラッグシップ・タイトルだったNWAテキサス・ヘビー級王座を巡り、デビッド・フォン・エリックとの抗争を展開する。師匠のホセ・ロザリオとも遺恨試合を行い、メキシコ人ルードのエル・グラン・マルクスをパートナーに、エル・ハルコンタイガー・コンウェイ・ジュニアと組んだロザリオとNWAアメリカン・タッグ王座を争った。タッグ戦線ではジミー・スヌーカブルーザー・ブロディのパートナーにも起用され、NWAテキサス・タッグ王座を計3回獲得している。
ダラスには1980年まで定着し、1981年からは古巣サンアントニオのSCWに復帰。2月27日にはヒューストンチャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取している。同年8月、全日本プロレスの『スーパー・アイドル・シリーズ』に再来日。同シリーズではジプシー・ジョーの相棒となり、マスカラス兄弟(ミル・マスカラス&ドス・カラス)やリッキー・スティムボートらアイドル勢を相手にイキのいいラフファイトを披露、ヒールとしての持ち味を日本でも遺憾なく発揮し、次回の来日が期待された〔『プロレスアルバム55 スーパー・タッグ Now!』P24(1985年、恒文社)〕。
1982年ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにもゲスト出場しており、ブラッド・アームストロングトム・プリチャードに勝利。ロディ・パイパーのインタビュー・コーナーに出演した際には、女優ファラ・フォーセットのバースデイ・パーティーに招待されたことを鼻にかけ、彼女をモノにしたと嘯くなど色悪ぶりをアピール、ジョージア地区のトップ・ベビーフェイスとして女性ファンの支持を集めていたトミー・リッチを挑発した。
本拠地のSCWではニック・ボックウィンクルAWA世界ヘビー級王座にも挑戦。タッグでは、団体のプロモーターであるジョー・ブランチャードの息子タリー・ブランチャードダイナミック・デュオThe Dynamic Duo)を結成〔入場テーマ曲にはクイーンの『We Are the Champions』を使用していた。〕。1981年から1983年にかけて、ワフー・マクダニエル&テリー・ファンク、ブルーザー・ブロディ&ディック・スレーターなどの強豪チームを相手に、SCW認定のタッグ・タイトルを再三獲得した。
1984年、ブランチャードのジム・クロケット・プロモーションズ移籍に伴い、チームを解散して再びダラスのWCCWに参戦。同年6月23日、手本としていたリック・フレアーをトーナメントの決勝で下しテキサス・ヘビー級王座に返り咲く〔。1985年からは "ジェントルマン" クリス・アダムスを新パートナーにダイナミック・デュオを再編。NWAアメリカン・タッグ王座を巡るフォン・エリック兄弟ケビン&ケリー・フォン・エリック)との抗争劇は、WCCWのドル箱カードとなった。
1986年、当時WCCWと提携を結んでいた新日本プロレスへの来日が決定。アダムスとのコンビで2月28日開幕のシリーズへの参加が発表されたが、来日を目前に控えた2月4日、ハイランドパークの自宅で死亡しているところを発見される〔。検死の結果、死亡日は1月30日、死因はコカインの過剰摂取と判明した。。あまりにも突然の死のため自殺説や他殺説も囁かれたが、いずれも推測の域を出ていない〔『THE WRESTLER BEST 1000』P273(1996年、日本スポーツ出版社)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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