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ジプシー・ジョー : ミニ英和和英辞書
ジプシー・ジョー[じぷしー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジプシー : [じぷしー]
 【名詞】 1. Gypsy 2. (n) Gypsy
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジプシー・ジョー : ウィキペディア日本語版
ジプシー・ジョー[じぷしー]

ジプシー・ジョーGypsy Joe1933年12月2日 - )はプエルトリコ出身のプロレスラー。本名はヒルベルト・メレンデスGilberto Melendez)、愛称はペペPepe)。
全盛時は流血戦を得意とするラフファイターとして活躍した。小柄だが無類のタフネスを誇り、スチール製の椅子で殴打されても反対に椅子の方が折れ曲がってしまうほどの驚異的な肉体の持ち主で知られる〔『16文が行く (新装版) 』P190-191(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)〕。
== 来歴 ==
少年時代にプエルトリコからニューヨークに移住し、1963年WWWFのローカル・テリトリーでルー・アルバーノを相手にデビュー〔『Gスピリッツ Vol.13』P79-81「評伝 - ジプシー・ジョー 殺し屋は人生のホームレス」(2009年、辰巳出版、ISBN 4777807150)〕〔『THE WRESTLER BEST 1000』P64(1996年、日本スポーツ出版社) 〕。当時のトレーニング仲間には、同じプエルトリカンのペドロ・モラレスカルロス・コロンがいたという〔。
以後、北米大陸各地を転戦し、1971年にはジーン・マドリッド(''Gene Madrid'')のリングネームテキサス東部のダラス地区(フリッツ・フォン・エリックが主宰していたNWAビッグタイム・レスリング / 後のWCCW)に出場。ミッドカードのポジションでブル・カリーミツ・アラカワヨシノ・サトらと共闘し、ジェス・オルテガマイティ・イゴールデューイ・ロバートソンザ・ストンパーソニー・キングドミニク・デヌーチフレッド・カリーなどと対戦した。
1974年メキシコアズテック・ジョー(''Aztec Joe'')なるインディアンギミックのレスラーに変身〔『THE WRESTLER BEST 100』P224-225(1981年、日本スポーツ出版社)〕。その後ジプシー・ジョー(''Gypsy Joe'')と名乗り、カナダモントリオール地区に登場、マッドドッグ・バションドン・レオ・ジョナサンジョー・ルダックらと抗争を展開した〔。
1975年9月、バションの推薦で国際プロレスに初来日。9月17日にはマイティ井上と初の金網デスマッチを行った。以降も同団体にエース外国人の一人として来日し、ラッシャー木村IWA世界ヘビー級王座に再三に渡って挑戦。王座奪取は果たせなかったものの、金網デスマッチにおいて金網最上段からダイビング・ニー・ドロップを放つなど破天荒な暴れっぷりを見せた。1976年10月の来日時には、剛竜馬初の金網デスマッチの対戦相手を務めた。また、ザ・キラーギル・ヘイズキラー・トーア・カマタキラー・ブルックスキラー・カール・クラップらと組み、IWA世界タッグ王座にも何度となく挑んでいる〔『忘れじの国際プロレス』P103(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。1977年2月に開幕した『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されたIWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにマッドドッグ・バションと組んで出場し、1回戦で前王者チームのグレート草津&マイティ井上に勝利し準決勝へ進出したが、準決勝のアニマル浜口&寺西勇戦でバションと仲間割れして失格(トーナメントはビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスが優勝)、公式リーグ戦ではモントリオールでのバションとの因縁試合が再現された〔『忘れじの国際プロレス』P31(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。1979年11月7日には阿修羅・原WWU世界ジュニアヘビー級王座に金網デスマッチで挑戦し、翌1980年1月7日と1月14日にも再挑戦している〔。1980年7月1日には大阪府立体育館にて大木金太郎インターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦した〔。国際プロレスには崩壊間際まで来日を続け、1981年8月の同団体の最終シリーズにも、前シリーズからの連続参戦で出場した。
国際崩壊後の1981年8月末からは全日本プロレスの常連外国人となり、1985年まで計10回に渡って来日。1981年の初参戦時は、9月4日にジャンボ鶴田UNヘビー級王座、9月9日にミル・マスカラスIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。軽量級であったことから、国際プロレス時代と同様にジュニアヘビー級戦線でも活躍し、大仁田厚やマイティ井上が保持していたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座にも挑戦した。また、国際プロレス出身の鶴見五郎ジェリー・モローと組み、同じく元国際プロレスのマイティ井上&阿修羅・原が保持していたアジアタッグ王座にも挑戦している。
アメリカ本土では主に独立系の団体に出場していたためメジャーテリトリーでの実績は多くないが、「無法地帯」と呼ばれていたテネシー地区では1960年代後半から1980年代前半にかけて活躍。1978年11月にはトーナメント決勝でメキシカン・エンジェルを破って優勝を果たし、NWA世界ブラスナックル王座の初代チャンピオンに認定されている。1970年代末より発足したCWAではマネージャージミー・ハート率いるヒール軍団の一員として、ジェリー・ローラージャッキー・ファーゴロッキー・ジョンソンジミー・バリアントトミー・リッチビル・ダンディーらトップスターと流血の喧嘩試合を展開した。国際プロレス時代は選手の招聘窓口も担当しており、ポール・エラリングらがジョーの仲介でテネシーから初来日している。
1984年にはカンザスシティNWAセントラル・ステーツ地区に登場し、ミスター・ポーゴと組んでマーティ・ジャネッティ&トミー・ロジャースのアップタウン・ボーイズからセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取。その後、1985年の全日本への来日を最後にしばらく近況が聞かれなかったが、1991年エル・グラン・ピストレロ(''El Grande Pistolero'')なる覆面レスラーとして、CWAの後継団体であるテネシー州メンフィスUSWAで復帰、USWA認定ジュニアヘビー級王座を獲得した。
同年8月、W★INGの招聘で久々に日本マットに登場。1993年2月3日には後楽園ホールにて、高杉正彦を相手に5分間のエキシビション・マッチによる引退試合も行われたが、その後も単発的に復帰しており、1995年2002年に後継プロモーションのIWAジャパンに来日している。国際プロレス時代と同様に、W★INGとIWAジャパンではUSWAとの渉外窓口の役目も担った。
近年も各地のインディー団体にスポット参戦を続け、2007年にはアメリカ東部のIWAイーストコーストNOSAWA論外と対戦。2009年4月1日にはハードコア・レスリングのレジェンド〔としての功績を称え、同団体主催によるトリビュート・イベント "Gypsy Joe Tribute Show" も行われた。
2010年12月、77歳にして8年ぶりの来日を果たし、11日に新宿FACEで行われた『SMASH.11』にて、「ワールド・レジェンド・リバイバル」と銘打たれたメインイベントに出場。TAJIRIと対戦し敗れるも、積極的に場外乱闘に挑み、椅子で殴打されても逆に椅子2脚を壊すなど、往年のタフネスの健在ぶりを見せた。この試合は特別レフェリーとして元国際プロレスの遠藤光男が裁いた。
2011年1月7日、テネシー州タラホマのSWF(Southern Wrestling Federation)にて現役引退試合を行った。WWEによれば、試合当日時点で現役世界最年長の記録を持つ〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジプシー・ジョー」の詳細全文を読む




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