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ジミー・ハート(Jimmy Hart、本名:James Ray Hart、1944年1月1日 - )はアメリカ合衆国のプロレス・マネージャー、作曲家、歌手。ミシシッピ州ジャクソン出身。ニックネームは「南部のおしゃべり男(Mouth of the South)」。2005年、WWE殿堂入り。 1980年代、1990年代を代表するヒール・マネージャーの一人で、コスチュームは原色の派手なスーツ、サングラスにリーゼント。常に携帯しているメガホンは彼の代名詞となっている。元々は人気ロックバンドのヴォーカリストだった。 == 来歴 == 1963年、ロックバンド「ザ・ジェントリーズ(The Gentrys)」のメンバーとしてデビュー。最大のヒット曲『Keep on Dancing』では全米ビルボードチャート4位にランクインした。 テネシー州メンフィスの看板レスラーでプロモーターでもあったジェリー・ローラーにスカウトされ、1970年代に彼のマネージャーに転身。テネシーではローラーの他、若手時代のランディ・サベージやその弟ラニー・ポッフォ、リック・ルード、オースチン・アイドルなどを担当した。 1980年代初めには、ローラーと対立し抗争を始める。ハートはアンディ・カウフマンを絡めた長い抗争により全国的な知名度を得た。ハートは「ファースト・ファミリー」と呼ばれるユニットを組んでローラーに対抗した。ジェリー・ローラーが「The King(王様)」であったのに対し、ハートのニックネームは「The Wimp(弱虫)」であった。 1985年にWWFに移籍し、まずはキングコング・バンディを担当。レッスルマニア第1回大会のS・D・ジョーンズ戦は長きに渡ってレッスルマニア史上最短試合となっていた。その後はハート・ファウンデーションやナスティ・ボーイズなどを始め、特にタッグチームのマネージメントを担当し、数多くのコンビをタッグ王者に導いた。テネシーでもマネージャーを務めていたハルク・ホーガンとも懇意になり、1990年代に入るとベビーフェイスのマネージャーに転向してホーガンとブルータス・ビーフケーキのタッグ、メガ・マニアックスも担当。1993年にはメガ・マニアックスのマネージャーとして新日本プロレスに2度来日している。また、元ミュージシャンの経歴を活かし、多くの選手の入場曲を作曲した〔。 ホーガンと時を同じくしてWWFを離れ、1994年に共にWCWへ移籍。リング外でもホーガンのマネージャーを務めるようになり、2001年のWCWの崩壊後は新団体XWFの旗揚げに参画した。程なくXWFは活動を停止したものの、その後はTNAに協力。一時期は彼のマネージメントで、WWEを離脱したホーガンのTNA登場が実現寸前となるも、2005年にはホーガンと共にWWE殿堂入りを果たすことになった。殿堂入り後もTNAでザ・ナチュラルズのマネージャーを担当するなど独自の立場を取り、近年もWWEとの関係を保ちながら、インディー団体やオールドタイマーのリユニオン・イベントへのスポット出場を続けている。 2007年4月1日のレッスルマニア23では、バックステージで行われたクライム・タイムのダンス・パーティーにカメオ出演。2008年11月7日にはジェリー・ローラーのトリビュート・ショーに登場、メインイベントでローラーと対戦したシッド・ビシャスのマネージャー役を務めた。 2009年11月にはハルク・ホーガンがオーストラリアでプロデュースした "Hulkamania Tour" に参加。2010年上期はWWF時代の盟友ナスティ・ボーイズのマネージャーとしてTNAに再登場した。 2011年3月よりWWEのレッスルマニア関連のプロジェクトに参画し、各地のハウス・ショーにも登場。8月14日のサマースラム2011ではバックステージ・セグメントにてR・トゥルースと絡んだ。2012年4月10日には、ロディ・パイパーやダスティ・ローデスらレジェンドと共にスマックダウンの "Blast from the Past" に出演。ウーソズと対戦したタイソン・キッド&ヒース・スレイターのマネージャー役で登場し、往年のメガホン口撃を見せるも、コメンテーターを務めていたミック・フォーリーのマンディブル・クローの餌食となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジミー・ハート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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