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堀尾 文人(ほりお ふみと、1907年3月15日〔#社会史、p16〕 - 1949年12月11日)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。外野手(センター)。本名:ジェームズ・フミオ・ホリオ。愛称は"ジミー"で「ジミー堀尾」。 アメリカ国籍の日系二世〔プロ野球ポスター1リーグ時代図録|収蔵品紹介|財団法人野球体育博物館 〕。1934年の「大日本東京野球倶楽部」創立メンバーの一人で〔Yomiuri Giants Official Web Site 〕、日本プロ野球の外国人選手(外国籍選手)第1号〔週刊ベースボール、1978年7月10日号 『プロ野球なんでも第1号』p84〕〔永井正義『勇者たち=人物阪急球団史=』1978年、現代企画室、p27-28〕〔同じ創立メンバーのヴィクトル・スタルヒンは生涯無国籍だったといわれるが、日本の中学、高校に3年以上在学したため、野球協約第82条の解釈では外国人選手ではないと考えられる。ただ2003年9月の改正以降の解釈でいえば、堀尾も外国人選手ではなくなる(心の中の国境~無国籍投手スタルヒンの栄光と挫折~ 、日本プロフェッショナル野球協約2009 、第82条(外国人選手)の項参照)。〕。スイッチヒッター第1号。またアメリカでアジア人メジャーリーガー第一号を目指した選手とされる〔 #社会史 、p3〕〔#フィッツ、p60-61〕。 == 来歴・人物 == === 生い立ち === 両親とも広島出身で、父・島太郎と家族は1890年、数万人の広島県人とともにハワイ王国へ移住〔。(1893年にハワイ共和国、1898年にハワイ併合によりアメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)となる。ハワイにおける日本人移民も合わせて参照)。一家はマウイ島パイアにある農場に雇われた〔。両親は劣悪の環境のさとうきび畑で働く〔。ジミーは8人兄弟の7番目としてマウイ島で生まれる〔。1910年、ジミーは兄とともに3歳で帰国し9歳まで広島市牛田(現在の東区)の父親の実家で育つ〔『ベースボールの社会史』p21、237、305。またp157、158には、広島の実家は"猿猴川(京橋川の誤りか?)に流れ込む小川"、"二又土手と名のついた小川沿い"と記述されている(2g406b 牛田聖天参詣道・道標 )。〕。マウイ島に戻り、野球に夢中になる〔#フィッツ、p61-63〕。1920年代のハワイは非常に野球が盛んであったが、ラジオがあまり普及しておらず、アメリカ本土の試合は滅多に放送されることはなく、まわりにメジャーリーグに関心を持つ者はいなかった〔。しかしジミーは抜きん出て背が高くて特別野球がうまく、少年時代から目標はアメリカで「日系人プロ野球選手第一号となる」ことであった〔〔#社会史、p30、31〕。マウイ高校中退〔#社会史、p29、169、170〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀尾文人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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