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ジム・ロス(Jim Ross、本名:James William Ross、1953年1月3日 - )はアメリカ合衆国のプロレス実況アナウンサー。オクラホマ州タルサ出身。通称 "JR"。 プロレス団体WWEの経営戦略部門の副社長を務め、WWEの看板番組の実況を担当していた。レスラーではないが、ストーリーに応じて極まれに試合に出場することもあった。現代アメリカのプロレス界を代表する実況アナウンサーで、テンガロンハットと眼鏡がトレードマークである。 == 来歴 == 少年時代からプロレス好きで、当時は同じオクラホマ出身の英雄ダニー・ホッジのファンだったという。学生時代はオクラホマ州立大学アナウンス部に在籍していた。 1980年代初頭に地元オクラホマをサーキットエリアとするビル・ワットのMSWAにてリングアナウンサー、インタビュアーを始めたのがプロレス業界での仕事のスタートである。1985年頃にはMSWAの看板アナウンサーになり、同団体が全米進出を開始してUWFと改称してからは参入マーケットの拡大にも手腕を発揮した〔ショーン・アセール、マイク・ムーニハム共著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P96(2004年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583037880)〕。 UWFがNWA(ジム・クロケット・プロモーションズ)に買収され、さらにNWAがWCWへと体制が変更されても引き続き活躍していたが、1993年にWCW上層部との対立を起こしていたところ、ビンス・マクマホンによってWWFにスカウトされ、移籍。 レッスルマニア9にてWWF登場を果たし、当時は実況を務めていたビンスなどとコンビを組む。以降、セミリタイアして実況席に着いたジェリー "ザ・キング" ローラーとのコンビでWWFのテレビ番組の実況担当としての地位を築いた。WWFではレスラーを統括する部門の副社長にも就任。レスラーからの信頼は高く、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンは親友であると公言している。 アナウンサーでありながらレスラーや関係者との抗争も数多く繰り広げており、エリック・ビショフがWWEに登場した2002年以降は、それに関連した抗争で何度か試合を行っている。試合に出場する際は、実況席の相棒ジェリー・ローラーとタッグを組むことが多かった。 2005年2月4日のRAWテレビショー「ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR」さいたまスーパーアリーナ大会に、アナウンサーとして初来日。実況を務めた。 2005年に入り、腸の手術による番組の長期離脱の必要性が発生した。同年10月のPPVであるWWE・ホームカミングにて、オースチンがマクマホン一家にスタナーを繰り出すのを止めなかったことを理由にストーリー上解雇される(実際にはWWE副社長に留まり続けている)。それに端を発し、オースチンがジム・ロス復帰を賭けてジョナサン・コーチマンとPPVタブー・チューズデイにて試合をする予定であったが、オースチンがPPV直前にWWEを離脱し、ストーリーは中断することとなった。 手術後の2006年3月18日、サタデー・ナイト・メイン・イベントにて実況アナウンサーとしての復帰を果たした。当初はPPVなどを中心としたパートタイムでの活動だったが、同年4月よりフルタイムで復帰。2007年にはWWE殿堂に迎えられた(プレゼンターはスティーブ・オースチン)。 2008年6月のドラフトでスマックダウンへ移籍するが、2009年10月からは体調を崩し実況から退いた。2010年5月にWWEとのタレント契約が満了。契約更新後はWWEのスカウト部門で活動する一方、度々テレビショーに登場し、ヒールターンしたマイケル・コールとの舌戦やパフォーマンス対決などを行った。 2012年6月、番組構成が変更されたNXTに実況担当として登場。放送席への久々の復帰が実現した。さらにジェリー・ローラーが心肺停止で倒れてから、一時的にRAWにも出演。マイケル・コールとも自然に和解した。 2013年、WWEを退社。その後は2015年1月4日、新日本プロレスの「WRESTLE KINGDOM 9 in 東京ドーム」において、北米のPPV放送の実況アナウンサーを担当した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジム・ロス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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