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ジャイ・シング2世(Jai Singh II, 1688年12月3日 - 1743年9月21日)は、北インドのラージャスターン地方、アンベール王国(ジャイプル王国)の君主(在位:1699年 - 1743年)。ムガル帝国の政治家・武将でもある。サワーイー・ジャイ・シング(Sawai Jai Singh)とも呼ばれる。 彼は18世紀におけるもっとも際立ったラージプートの王であり、また優れた政治家、立法者、改革者、科学者でもあった〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.24〕。1727年に王国の首都をアンベールからジャイプルへと遷都し、そこに展望台なども建築したことでもよく知られている〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.24〕。 ==生涯== 1688年12月3日、アンベール王国の君主ビシャン・シングの息子として生まれた〔JAIPUR (Princely State) (17 gun salute) 〕〔Jaipur (Princely State) 〕。 1699年12月31日、父のアンベール王ビシャン・シングが死亡し、ジャイ・シングがジャイ・シング2世とした王位を継承した〔JAIPUR (Princely State) (17 gun salute) 〕〔Jaipur (Princely State) 〕。 ジャイ・シング2世は即位後、マラーター王国と戦うためにデカン戦争に参加し、1701年8月3日にはブルハーンプルに到着した。だが、そこで雨期に直面し、行軍できなくなった〔Sarkar, Jadunath (1984, reprint 1994) ''A History of Jaipur'', New Delhi: Orient Longman, ISBN 81-250-0333-9, p.157〕。 1702年、ジャイ・シング2世はケールナーの包囲に尽力したことを報いられ、「サワーイー」(4分の1)の称号を与えられた。 1704年、ジャイ・シング2世は皇帝アウラングゼーブの孫ビーダール・バフトの代理として、マールワー地方の統治を委ねられた。だが、アウラングゼーブによってこの決定は取り消された。 1707年3月、アウラングゼーブが死亡すると、ジャイ・シング2世はさまざまな問題に巻き込まれた。彼の支持者ビーダール・バフトとその父アーザム・シャーが対立候補のバハードゥル・シャー1世に殺害されたのである。 バハードゥル・シャー1世はアンベール王国に対する支配を強化しようとし、ジャイ・シング2世に代えて弟のヴィジャイ・シングを君主の座に据えようとさえした〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.3〕。ジャイ・シング2世はこれに対し、マールワール王国とメーワール王国と同盟を結んで対抗し、帝国の勢力をラージャスターンから放逐した。のち、ジャイ・シング2世はバハードゥル・シャー1世と講和したが、要求した太守職は認められなかった〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.3〕。 1712年、バハードゥル・シャー1世の死後、息子のジャハーンダール・シャーが即位すると、宰相ズルフィカール・ハーンはヒンドゥー教徒を懐柔しようとした〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.6〕。そのため、ジャイ・シング2世はアーグラとマールワーの太守に任命された〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.6〕〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.24〕。また、このとき「ミールザー・ラージャ・サワーイー」の称号も授けられた〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.6〕。 ジャイ・シング2世はアーグラにおいて、伸長するジャート勢力との紛争に巻き込まれた。ジャート勢力を率いていたのはバラトプルに拠点を持つチューラーマンであった。ジャイ・シング2世はムガル帝国から莫大な資金とメーワール、マールワール、コーターからの援軍を得たのち、1716年にトゥーンの城塞を包囲した。この都市の占領後、周辺の小さな城砦は占領あるいは破壊され、アーグラ周辺の支配を固めた。 ジャイ・シング2世は本国における統治も欠かさず、1727年11月に首都をアンベールからジャイプルへと遷都した。ジャイプルはジャイ・シング2世の名を冠した「勝利の都市」を意味する都市でもある。科学的な原則に則って建設された新都ジャイプルは、科学と芸術の都市として発展した〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.24〕。 マールワー方面では、アウラングゼーブの死後にマラーター勢力が伸長し、太守たるジャイ・シング2世はこれに対抗していた。だが、1737年12月にボーパールの戦いでムガル帝国の軍勢がマラーター軍に大敗北を喫した。翌1738年1月にボーパール条約を締結してマールワーを割譲した。 1743年9月21日、ジャイ・シング2世はジャイプルで死亡した。死後、息子のイーシュヴァリー・シングが王位を継承した〔JAIPUR (Princely State) (17 gun salute) 〕〔Jaipur (Princely State) 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャイ・シング2世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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