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ジャクリーン・リー・ブービェ・ケネディ・オナシス : ミニ英和和英辞書
ジャクリーン・リー・ブービェ・ケネディ・オナシス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャクリーン・リー・ブービェ・ケネディ・オナシス ( リダイレクト:ジャクリーン・ケネディ・オナシス ) : ウィキペディア日本語版
ジャクリーン・ケネディ・オナシス[ちょうおん]

ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis、1929年7月28日 - 1994年5月19日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人。1961年から1963年までアメリカファーストレディであった。ケネディ大統領暗殺の5年後、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚。オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩んだ。彼女は単なる大統領夫人という枠を超えて、ファッションアイコンとして世界の女性の憧れとなった。特にケネディ暗殺時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして人々の記憶に残っている。
== 生涯 ==

=== 生い立ちと教育 ===
1929年、ジャクリーン・リー・ブーヴィエはニューヨーク、サウサンプトンで、父ジョン・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世(John Vernou Bouvier III、1891年 - 1957年)と母ジャネット・リー・ブーヴィエ(Janet Lee Bouvier、1907年 - 1989年)の間に生まれた。夫妻の間にはジャクリーンとその妹であるキャロライン・リー・ブーヴィエ(1933年生まれ)の二人の子供がいた。フランス系の父ジョン・ブービエは株の仲買人で財産家、アイルランド系の母ジャネット・リーの実家も裕福だった〔雑誌「PEN」ペン №330 2013年2月販売号 46P参照〕。しかし父ジョンは「ブラックジャック」とあだ名された道楽者で女性関係も派手だったため、1940年に夫妻は離婚し、母ジャネットはその後スタンダード・オイルの相続者で実業家ヒュー・ダドリー・オーチンクロス(Hugh D. Auchincloss)と再婚し、二人の子供(ジャネット(Janet Auchincloss Rutherfurd)とジェームズ(James Lee Auchincloss))をもうけた。
アイルランド系の母ジャネット〔Pottker, Jan . Janet and Jackie: The Story of a Mother and Her Daughter, Jacqueline Kennedy Onassis. New York City: St. Martin's Griffin, 2002,p. 7.〕の家系には、ジャクリーンの曾祖父にあたる人物がアイルランドのコークからアメリカにやってきてニューヨーク市の公立学校の校長になった者がいた。父ジョン・ジャックにはフランス、スコットランド、イギリスの血が入っていた〔Flaherty, Tina (2004). What Jackie Taught Us: Lessons from the Remarkable Life of Jacqueline. New York City: Penguin Group. 2004〕。
ジャクリーンは母ジャネットの影響で幼いころから乗馬を好み、これを生涯の趣味とした〔J・ランディ・タラボレッリ、『ジャッキー・エセル・ジョーン ケネディ家に嫁いだ女たち』、集英社、2002、p60〕。また厳格な母からエチケットやマナーなど厳しく躾られ、母が社交好きであったので女性としての嗜みやファッションセンスを受け継いでいく〔雑誌「PEN」ペン №330 2013年2月販売号 46P参照〕。
学齢に達したジャクリーンは、ニューヨークのチャピン・スクール(Chapin school)を皮切りに、メリーランド州のベセスダにあるホルトン-アームズ校(Holton-Arms School、1942年 - 1944年)、ファーミントンのミス・ポーターズ・スクール(Miss Porter's School 、1944年 - 1947年)へと進んだ。さらにヴァッサー大学(Vassar College、1947年 - 1948年)に2年在籍した後でスミス大学の留学プログラムを利用してフランスに渡り、グルノーブル大学(University of Grenoble)とソルボンヌ大学(Sorbonne)に学んだ。1947年、ジャクリーンが17歳で社交界にデビューしたとき、コラムニストのイゴ・カッシーニ(Igor Cassini)は彼女がその年の「デビュタント・クイーン」(社交界デビューした女性の中のナンバーワン)であると書いた〔タラボレッリ、p68〕〔イゴの兄弟オレグ・カッシーニはデザイナーで後年、ジャクリーンは彼のデザインした服を愛用するようになる〕。そして実際に彼女は「デピュタント・オブ・ジ・イヤー」に選出され、さらに「ヴォーグ」誌のエッセイ・コンテストに優勝して才色兼備ぶりを発揮し始める〔雑誌「PEN」ペン №330 2013年2月販売号 46P参照〕。フランスから戻ったジャクリーンは、ジョージ・ワシントン大学に編入しフランス文学を専攻して1951年に学位を取って卒業した。同年の夏、ジャクリーンは妹のリーと二人でヨーロッパ旅行を楽しんだ。
大学卒業後、ジャクリーンは継父オーチンクロスの知人アーサー・クロックの伝手でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙(Washington Times-Herald)に就職し、記者として働いた〔ピーター・コリヤー、デヴィッド・ホロヴィッツ、鈴木主税訳、『ケネディ家の人々』(上下)、草思社、1990、上p299〕。1952年5月、記者でありケネディ兄弟の友人だったチャールズ・バートレット(Charles L. Bartlett)家のパーティーで、ジャクリーンは「ジャック」ことジョン・F・ケネディとお互いの存在を強く意識するようになった。ジャックがジャクリーンを父親の「ジョー」(ジョセフ・P・ケネディ)に紹介すると、ジョーは彼女をすぐに気にいった。学歴と気品があり、カトリック教徒で、何より資産家の令嬢である。彼女こそがケネディ家の嫁にふさわしく、将来合衆国大統領のファーストレディとなるべく資質を備えているとジョーは見たのだ〔ロナルド・ケスラー、山崎淳訳 『汝の父の罪』、文藝春秋、1996年、p433〕。同じころ、ジャクリーンは株式仲買人のジョン・ハステッド(John G. W. Husted, Jr.)と婚約していたが、ケネディとの付き合いが進む中で婚約が解消された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャクリーン・ケネディ・オナシス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jacqueline Kennedy Onassis 」があります。




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