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ジャッキー・ファーゴ(Jackie Fargo、本名:Henry Faggart、1928年5月17日 - 2013年6月24日〔)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州コンコード出身。 ゴージャス・ジョージやバディ・ロジャースの影響下にある金髪の伊達男キャラクターとして、テネシーを主戦場に絶大な人気を獲得した。ジェリー・ローラーに先駆ける「元祖・テネシーの帝王」であり〔『Gスピリッツ Vol.19』P65-75「カンジ・イノキのアメリカ武者修行 第4回 略奪事件直前の『空白』」(2011年、辰巳出版、ISBN 9784777808922)〕、"Southern Legend" の異名を持つ。 == 来歴 == 1950年代前半にデビューした後、ギミック上の兄弟であるドン・ファーゴ(ドン・スティーブンス)とのタッグチーム、ファビュラス・ファーゴ・ブラザーズ(The Fabulous Fargo Brothers)で活動。ヒールの金髪コンビとして、1957年3月30日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてアントニオ・ロッカ&ミゲル・ペレスと世界タッグ王座を争った。その後もテネシーをはじめジョージアやシカゴなど各地区に参戦し、ジョージアでは1958年8月にスタン・リソワスキー&レジー・リソワスキーから世界タッグ王座を奪取した〔。 ドンとのコンビを解消後、1961年5月30日にボストン地区でベアキャット・ライトからAAC世界ヘビー級王座を奪取。6月3日にはテネシー州チャタヌーガにてパット・オコーナーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。以降、ベビーフェイスに転じてニック・グラスの主宰するテネシーのNWAミッドアメリカ地区に定着し、1960年代全般に渡り同地区のスターとして活躍。1965年12月から1966年2月にかけては、当時アメリカ武者修業中だったカンジ・イノキことアントニオ猪木とも度々対戦しており、ヘイスタック・カルホーンをパートナーに猪木&ヒロ・マツダとのタッグマッチも行われた〔。1967年上期にはトージョー・ヤマモト&プロフェッサー・イトーとミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座を争い、1968年8月にはルー・テーズと組んで南部タッグ王座を獲得している。 1970年8月、日本プロレスに初来日。初戦では星野勘太郎を70秒で下し、テネシーで胸を貸した猪木とのシングルマッチも行われた〔。同じく初来日のアブドーラ・ザ・ブッチャーの活躍に食われ、日本ではインパクトを残すことはできなかったものの〔、円熟期に入った1970年代もテネシーのヒーローとなって活躍。ザ・シークなど他地区からスポット参戦してくる大物ヒールも迎撃した。1974年には若手ヒール時代のジェリー・ローラーを相手に南部ジュニアヘビー級王座を巡る抗争を展開、以降もローラーとは遺恨試合を繰り広げた。 1977年、NWAミッドアメリカの番頭格だったジェリー・ジャレットがローラーをエースにメンフィスにて新団体CWAを設立すると、1979年よりファーゴもCWAに移籍。フェイスターンしたローラーと新旧の帝王コンビを組み、オースチン・アイドル&ダッチ・マンテルやブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)などのチームと対戦した。同年11月にはCWAに登場したニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。翌1980年6月には息子のランディ・ファーゴをパートナーに、ジプシー・ジョー&スカル・マーフィーからAWA南部タッグ王座を奪取した。その後はセミリタイアし、彼のニックネーム "The Fabulous One" をチーム名としたスティーブ・カーン&スタン・レーンのファビュラス・ワンズのマネージャー役などを担当。悪党マネージャーのジミー・ハートとも抗争し、1982年11月8日にはハートとのランバージャック・マッチが行われた〔。 1984年の引退後は、1991年にCWAの後継団体USWAに登場〔。2000年代前半には、盟友のジェリー・ジャレットが創設したTNAの興行に顔を見せた〔。 2013年6月24日死去()。同年、NWA殿堂に迎えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャッキー・ファーゴ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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