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ジャック・カーディフ(Jack Cardiff OBE, B.S.C., 1914年9月18日 - 2009年4月22日)は、アカデミー賞受賞のイギリスの撮影監督、映画監督、写真家である。 カーディフの活動は、サイレント映画の時代から、テクニカラー、成功はしなかったが匂いの出るスメロヴィジョン(Smell-O-Vision)を経て、21世紀にまで及んでいる。その映画撮影技術は、マイケル・パウエル、ジョン・ヒューストン、アルフレッド・ヒッチコックといった映画監督の作品で知られている。 長年の映画への功績に対して、2000年に大英帝国勲章を叙勲、2001年にはアカデミー名誉賞が贈られた。 == 経歴 == カーディフはノーフォークのグレート・ヤーマスで生まれた。両親はミュージックホールのエンターテイナーだった。子役としてミュージックホールやサイレント映画(『My Son, My Son』1918年、『Billy's Rose』1922年、『The Loves of Mary, Queen of Scots』1923年、『Tiptoes』1927年)に出演。15歳で撮影助手、カチンコ係、制作進行として、ヒッチコックの『スキン・ゲーム(The Skin Game)』(1931年)などのBritish International Pictures(後のAssociated British Picture Corporation)作品で働いた。 1935年、カーディフは撮影技師ならびに臨時の撮影監督に昇進し、主にロンドン・フィルム(London Films)で仕事をした。『暁の翼』(1937年)ではイギリスで初めてテクニカラーで撮影した。第二次世界大戦が始まると、広報映画の撮影監督を務めた。 カーディフのターニング・ポイントとなったのは、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガーの『老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp)』(1943年)の第2班撮影監督をやったことである。パウエルたちはカーディフに感心し、戦後のテクニカラー映画の傑作『天国への階段』(1946年)の撮影監督にカーディフを起用した。パウエルたちとの関係は『黒水仙』(1947年)、『赤い靴』(1948年)と続き、『黒水仙』でカーディフはアカデミー賞とゴールデングローブ賞を受賞した。以降は大作映画の仕事が増えた。 1950年代後期から、カーディフは映画監督の仕事も始め、『Intent to Kill』(1958年)と『Web of Evidence』(1959年)がそこそこの成功を収めた。1960年代にはD.H.ローレンスの小説をトレヴァー・ハワード、ウェンディ・ヒラー、ディーン・ストックウェルの出演で映画化した『息子と恋人』がヒットした。この映画はアカデミー賞7部門にノミネートされ、フレディ・フランシスが白黒撮影賞を受賞した。カーディフはゴールデングローブ賞監督賞を受賞した。しかし『息子と恋人』が監督としての絶頂で、以降は奇妙な寄せ集めの映画を作り続けた。 1970年代・1980年代には撮影監督にも復帰した。 2009年4月22日、死去した。94歳没〔ロイター「英映画カメラマン、ジャック・カーディフ氏が死去 」、2009年4月23日付。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャック・カーディフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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