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ジャック・ブリスコ(Jack Brisco、本名:Freddie Joe Brisco、1941年9月21日 - 2010年2月1日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。オクラホマ州セミノール出身〔。 第48代NWA世界ヘビー級王者、NWAおよびWWE殿堂者。実弟ジェリー・ブリスコも元プロレスラー。 == 来歴 == オクラホマ州立大学ではレスリングの強豪として鳴らし、NCAA全米学生選手権では1964年に2位、1965年に優勝を果たしている。通算戦績89戦87勝2敗という実績をひっさげ、地元オクラホマ地区(NWAトライステート)のプロモーターだったレロイ・マクガークにスカウトされ〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P13(2002年、日本スポーツ出版社)〕、1965年5月、オクラホマシティにてロニー・ガービンを相手にプロデビュー〔。以後、アスリート系のベビーフェイスとして、テキサス、フロリダ、さらにはオーストラリアまで各地を転戦。オクラホマ地区では1966年、少年時代のアイドルだったという同郷のダニー・ホッジとの連戦も行われた。 1967年11月、日本プロレスに初来日。デビュー2年目でありながら、この初来日当時から次期NWA世界チャンピオンの有力候補とされていた〔『世界名レスラー100人伝説!!』P130-131(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕。1971年7月の再来日時には、8月5日に愛知県体育館にてアントニオ猪木のUNヘビー級王座に挑戦、敗れはしたものの名勝負を残している〔。なお、日本では「南部の麒麟児」なる異名が付けられていた〔。 アメリカではフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を主戦場に、1970年2月10日にミスター・サイトーからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取。以降1973年にかけて、クリス・マルコフ、サンダーボルト・パターソン、ラリー・ヘニング、グレート・メフィスト、ターザン・タイラー、レネ・グレイ、テリー・ファンク、ボリス・マレンコ、ディック・マードック、ボビー・ダンカン、ベアキャット・ライト、ポール・ジョーンズ、ジョニー・バレンタイン、マッドドッグ・バション、ティム・ウッズ、バディ・コルトなどを相手に、フロリダ地区のフラッグシップ・タイトルである同王座の防衛戦を行った。その間にはドリー・ファンク・ジュニアの保持していたNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦。弟のジェリー・ブリスコともタッグを組み、1971年上期にはザ・ファンクスを相手にNWAフロリダ・タッグ王座を争った。 スター選手の地位を確立した後、1973年7月20日、テキサス州ヒューストンでハーリー・レイスを破り、第48代NWA世界ヘビー級王者となる。1974年1月には全日本プロレスに初登場。前王者レイスと元王者ドリー・ファンク・ジュニアも同時参戦した豪華シリーズにおいて、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ドリー、レイス、ザ・デストロイヤーの挑戦をすべて退けた。同年11月の来日では、12月2日に鹿児島県立体育館で馬場に敗れ王座を奪われるも、1週間後の12月9日、豊橋市体育館にて奪回に成功している〔〔。 その後も長期政権を築いたが、1975年12月10日、フロリダ州マイアミにてテリー・ファンクに敗れ王座から陥落〔。世界タイトルは失ったものの、以降も各地で活躍を続け、翌1976年4月17日にはパク・ソンを破りNWAフロリダ・ヘビー級王座に返り咲いている〔。同年8月9日にはテネシー州メンフィスにてジェリー・ローラーからミッドアメリカ版のNWA南部ヘビー級王座を奪取。同月28日の来日時には、復活したUNヘビー級王座の新王者決定戦でジャンボ鶴田と対戦した〔。11月26日にはミズーリ州セントルイスにてボブ・バックランドからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取し、翌1977年8月12日にディック・スレーターに敗れるまで保持した。 本拠地のフロリダでは1970年代後半、ジェリーとのタッグでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニア、スーパースター・ビリー・グラハム&オックス・ベーカー、ボビー・ダンカン&キラー・カール・コックス、ミスター・サイトー&ミスター・サトなどのチームと抗争〔。ジョージアではザ・ファンクスとの抗争も再開し、1978年から1979年にかけて、NWAジョージア・タッグ王座を争った。 1979年4月には新日本プロレスに初登場し、5月10日に福岡にて、日本プロレス以来8年ぶりの対戦となるアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。最後の来日となった1981年3月には全日本プロレスにUターンし、チャンピオン・カーニバルの第9回大会に参加。総当たり公式戦ではアブドーラ・ザ・ブッチャーやブルーザー・ブロディとも対戦した。カーニバル後に行われたインターナショナル・ヘビー級王座の新王者決定トーナメントにも出場したが、1回戦でブロディにカウントアウト負けを喫している。 その後、ジェリーとのコンビでプエルトリコのWWCに参戦、1981年8月8日にサンフアンにてザ・シープハーダーズからWWC北米タッグ王座を奪取。NWAの主要テリトリーでも精力的に活動を続け、同年10月2日にはテッド・デビアスを破ってNWAミズーリ・ヘビー級王座に返り咲き〔、11月22日にはボビー・ジャガーズからフロリダ版のNWA南部ヘビー級を奪取した。 1982年からはNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング)に主戦場を移し、ロディ・パイパーを相手にNWAミッドアトランティック・ヘビー級王座を巡る抗争を展開。1983年はジェリーと共に一時的にヒールのポジションに回り、リッキー・スティムボート&ジェイ・ヤングブラッドやワフー・マクダニエル&マーク・ヤングブラッドなどの人気チームとNWA世界タッグ王座を争った。 同時期、NWAジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)の興行株の25%を保有し、弟ジェリー、オレイ・アンダーソン、ポール・ジョーンズ(同名のプロレスラーとは別人)、ジェリー・オーツらと共に株主になっていたが、1984年4月に自身とジェリーやバーネットらでジョージア地区の興行株の過半数をWWFのビンス・マクマホン・ジュニアに総額90万ドルで売却〔ショーン・アセール、マイク・ムーニハム共著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P66-67(2004年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583037880)〕、これを機にWWFに移籍する〔。 このブリスコ兄弟の行動は、結果としてNWAの衰退とWWFの全米侵攻を促進させることとなり、そのためNWA系のプロモーターからの激しい憎悪を買った〔〔。WWF移籍後、しばらくは試合にも出場し、ジェリーと組んでディック・マードック&アドリアン・アドニスのWWF世界タッグ王座にも再三挑戦したが、1985年2月を最後にリングを去っている〔。それ以来、ブリスコ本人は「プロレスが行われるアリーナには出向いていなかった」というが、弟ジェリーはWWEに残り、ロード・エージェントとして重役の責を担った〔。 引退後はフロリダで自動車修理工場を経営していた〔。2008年3月にはジェリーと共にWWE殿堂に迎えられ、公の場に久々に姿を見せた。 2010年2月1日、死去。。近年は肺気腫を患うなど循環器に疾患を抱え、死去の数週間前に開胸手術を行い、リハビリテーションを受けている最中であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャック・ブリスコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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