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ジャック・ブルニョン(Jacques Brugnon, 1895年5月11日 - 1978年3月20日)は、フランス・パリ出身の男子テニス選手である。同僚のフランス人選手ジャン・ボロトラ(1898年 - 1994年)、アンリ・コシェ(1901年 - 1987年)、ルネ・ラコステ(1904年 - 1996年)と並んで、フランスの「四銃士」(''Les Quatre Mousquetaires'')と呼ばれた。「四銃士」という呼び名は、アレクサンドル・デュマ・ペールの有名な小説『三銃士』(''Les Trois Mousquetaires'')にちなんでつけられたものである。ブルニョンは「四銃士」の4人の中でも最年長の選手で、“Toto”(トト)という愛称で呼ばれた。 == 来歴 == ブルニョンは1921年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのフランス代表選手として活動し始めた。やがて1922年にジャン・ボロトラとアンリ・コシェが代表入りし、1923年にルネ・ラコステも加わって、フランス「四銃士」の世界的な活躍が始まる。4人の中で、ブルニョンだけは4大大会のシングルス・タイトルを獲得できなかったが、ダブルスで総計10勝(全豪選手権1勝、全仏選手権5勝、ウィンブルドン選手権4勝)を挙げた。パートナーはコシェと組んで5勝(全仏3勝:1927年、1930年、1932年/ウィンブルドン2勝:1926年、1928年)、ボロトラと組んで5勝(全豪1勝:1928年/全仏2勝:1926年、1928年/ウィンブルドン2勝:1932年、1933年)を記録した。ブルニョンのシングルスでの自己最高成績は、1926年ウィンブルドン選手権のベスト4である。 ジャック・ブルニョンは1924年パリ五輪の男子ダブルスで、アンリ・コシェと組んだ銀メダル獲得もある。ブルニョンとコシェは、決勝でアメリカ代表のビンセント・リチャーズ&フランシス・ハンター組に 6-4, 2-6, 3-6, 6-2, 3-6 で敗れた。同部門では、同じフランス「四銃士」のジャン・ボロトラ&ルネ・ラコステ組も銅メダルを獲得した。 1929年(昭和4年)10月、ジャック・ブルニョンはアンリ・コシェ、ピエール・ランドリー、レイモンド・ロデルとともに4人の一行で来日した。日本テニス協会はこの「日仏対抗戦」のために、東京に2000人収容の仮設スタンドつきテニス・コート2面を設置した。それから4年後の1933年、ブルニョンはウィンブルドン選手権の男子ダブルスで、ボロトラとのペアで大会2連覇を狙っていたが、その決勝で日本の佐藤次郎と布井良助のペアと対戦することになった。佐藤と布井の組が第1セットを 6-4 で奪ったが、続く3セットをボロトラ&ブルニョン組が 6-3, 6-3, 7-5 で奪って2連覇を決めた。 ブルニョンは1921年から1934年まで、13年間デビスカップのフランス代表選手を務めたが、彼の出場した試合はほとんどダブルス戦であった。(通算成績:シングルス4勝2敗+ダブルス22勝9敗=総計26勝11敗)ダブルス通算勝利数「22勝9敗」は、今なおデ杯フランス・チームの歴代1位記録である。 1974年、「四銃士」の物語がアメリカの映画監督リチャード・レスターにより映画化された。レスターは前年の1973年にデュマの小説『三銃士』の映画化を行い、それに続いて1920年代-1930年代前半に活躍した4人のフランス人テニス選手のドキュメンタリーも残したのである。 1976年、「四銃士」のメンバーたちは4人揃って国際テニス殿堂入りを果たす。4人とも長寿に恵まれたが、最年長だったブルニョンは殿堂入りの2年後、1978年3月20日にパリで82年の生涯を閉じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャック・ブルニョン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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