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ジャック・ランザ : ミニ英和和英辞書
ジャック・ランザ[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ジャック・ランザ ( リダイレクト:ブラックジャック・ランザ ) : ウィキペディア日本語版
ブラックジャック・ランザ[らん]

ブラックジャック・ランザBlackjack Lanza、本名:John "Jack" Lanza1942年10月14日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、現WWEプロデューサー。ニューメキシコ州アルバカーキ出身〔『THE WRESTLER BEST 1000』P179(1996年日本スポーツ出版社) 〕。生年は1935年ともされる。
現役選手時代はカウボーイギミックヒールとして、ブラックジャック・マリガンとのタッグチームザ・ブラックジャックス」などで活躍した。
== 来歴 ==
カウボーイの家系に育ち、学生時代はレスリングに熱中する一方、ロデオでも活躍。南部3州のロデオ大会で優勝したこともあるという〔。ドリー・ファンク・シニアにスカウトされ〔、1962年にプロレスラーとしてデビュー〔。
当初はカウボーイ・ジャック・ランザをリングネームに、西部の伊達男風のベビーフェイスとして売り出されていたが、1967年インディアナポリスWWAヒールに転向。ボビー・ヒーナンマネージャーに従えブラックジャック・ランザと改名し、12月27日にウイルバー・スナイダーからWWA世界ヘビー級王座を奪取して脚光を浴びる。NWA圏のミズーリ州セントルイスではアーニー・ラッドとも抗争を展開。1969年には総本山のキール・オーディトリアムにて、2月7日にジン・キニスキー、6月14日にドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。
1971年、ビッグ・ボブ・ウインダムことブラックジャック・マリガンと黒ずくめのカウボーイ・コンビ「ザ・ブラックジャックス」を結成、同年11月6日にウイルバー・スナイダー&ポール・クリスティからWWA世界タッグ王座を奪取する。以降、同タッグ王座を巡り、WWAとAWAを股にかけて、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争を繰り広げた。シングルでの活動も続け、1973年上期にWWWFペンシルベニアでの興行にブラックジャックスとして単発出場した後、同年下期より単身でWWWFに本格参戦し、ペドロ・モラレスWWWF世界ヘビー級王座に挑戦。10月15日にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてアンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦している。
1974年テキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に進出、マリガンとのブラックジャックスで同地区のタッグ戦線を席巻する一方、シングルでは10月にホセ・ロザリオからブラスナックル王座を奪取し、12月にはフリッツ・フォン・エリックとアメリカン・ヘビー級王座を争った。WWWFには1975年にもマリガンと共に参戦、8月26日にフィラデルフィアドミニク・デヌーチパット・バレットのチームを破り、WWWF世界タッグ王座を獲得した。シングルでも11月から12月にかけて、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦している。
1976年にブラックジャックスを解散してAWAに復帰、ボビー・ダンカンを新パートナーに同年7月23日、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからAWA世界タッグ王座を奪取。以降、翌1977年7月7日にグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズに敗れるまで、レイ・スティーブンス&ラリー・ヘニング、ペドロ・モラレス&ピーター・メイビア、アンドレ・ザ・ジャイアント&クラッシャー・リソワスキー、バーン・ガニア&ビル・ロビンソンなどのチームを相手に防衛を続け、第32代チャンピオン・チームとして長期政権を築いた。AWAでは1978年ボブ・オートン・ジュニアともタッグを結成している。
1979年にはマネージャーのヒーナンと共に、ジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦し、5月14日にボブ・アームストロングからTV王座を奪取。4日後の5月18日、アトランタオムニ・コロシアムで行われたジョージア・タッグ王座争奪トーナメントにはロン・バスと組んで出場、1回戦でボブ・アームストロング&ロバート・フラー、2回戦でダスティ・ローデス&ディック・スレーターを下し勝ち進んだが、準決勝でワフー・マクダニエル&トミー・リッチに敗れた。オムニ・コロシアムでは、同年9月21日にスタン・ハンセンともシングルマッチで対戦している。ジョージアではキラー・カール・コックスマスクド・スーパースターなど現地のヒール勢と共闘し、「ジョージア・ヒーナン・ファミリー」の一員として悪名を高めた。
1980年に体調を崩して一時リタイアした後、1983年に古巣のAWAで復帰。かつてと同様にヒールのポジションでジェシー・ベンチュラケン・パテラと共闘し、NWAセントルイス地区ではキール・オーディトリアムにてデビッド・フォン・エリックジェリー・ローラーとも対戦したが、同年秋にマネージャーのボビー・ヒーナンと仲間割れ。これを機に、白いテンガロンハットタキシード・ジャケットを身に着けたベビーフェイスに変身した。1984年3月4日にはイリノイ州シカゴにて、日本でAWA世界ヘビー級王座を奪取したジャンボ鶴田のアメリカでの初防衛戦の相手も務めており、この試合は日本でも中継されている。
AWAではフロント職のブッカーとしても才能を発揮し、「AWAの頭脳」とも評されたが、その手腕をビンス・マクマホンに見込まれ、1985年にロード・エージェントとしてWWFへ移籍。以降、四半世紀以上に渡り、パット・パターソンらと共にWWEの隆盛を裏方で支えている〔。2006年4月1日にはマリガンとのブラックジャックスでWWE殿堂に迎えられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブラックジャック・ランザ」の詳細全文を読む




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