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ジャック・リヴィエール : ミニ英和和英辞書
ジャック・リヴィエール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャック・リヴィエール : ウィキペディア日本語版
ジャック・リヴィエール[ちょうおん]

ジャック・リヴィエールリビエールリヴィエエルJacques Rivière, 1886年7月15日 - 1925年2月14日)は、フランス編集者文芸評論家
==生涯==
1886年ボルドー市で、医科大学教授の父の子として生まれた。1897年、10歳の頃、母と死別〔ポール・クローデルとの往復書簡集のイザベル・リヴィエールによる序文、1926年〕。ボルドー中学、ラカナール中学で学ぶ。ラカナール中学では、1903年アンリ・アラン=フルニエと知り合う。1907年、兵役中ボルドーで哲学の文学士号を取得する。再びパリに出て、テュイルリーの聖ヨゼフ学院、さらにポール・クローデルの紹介により、スタニスラス学院で教鞭を執る。この間、フランソワ・ド・サリニャック・ド・ラ・モット・フェヌロン(François de Salignac de La Mothe Fénelon)の神義論に関する論文によって、ソルボンヌ大学で学位を受ける〔摂理と自然法則とは同一であると定義するのが、フェヌロンにおける世界の合目的性なる命題である。『神の足跡を求めて』(À la trace de Dieu)、新フランス評論、1925年〕。1907年から「西洋」(L’Occident)誌、1909年からは新フランス評論(La Nouvelle Revue française:N・R・F)誌に寄稿し、編集員となる。1909年8月、アラン=フルニエの妹イザベルと結婚。1914年ランボー論を新フランス評論誌に発表〔著者没後、1930年に単行本となり、アンドレ・ジッドに献呈された。〕。第一次世界大戦には、第220歩兵連隊の軍曹として出征。開戦直後の1914年8月24日、エトンの戦で捕虜になり、ケーニヒスブリュック、次いで1915年7月、ヒュルスベルクの捕虜収容所に送られる。同年8月、脱走を試みるも、国境から数キロのところで捕えられる。同年9月、ケーニヒスブリュックに戻される。病気になり、スイスに移送され1年間療養し、1918年、終戦時に帰国を許される。1919年、新フランス評論誌を再刊して、その編集長となる。編集活動を通して、マルセル・プルーストポール・ヴァレリーらと交流する。1925年、チフスのためにパリで死去。〔『信仰への苦悶』、木村太郎訳、甲鳥書林、1942年の訳者による巻末解説〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャック・リヴィエール」の詳細全文を読む




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