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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ スピン : [すぴん] spin ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
バレーこと、ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー(Jader Volnei Spindler "Baré", 1982年1月18日-)は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州ベナンシオアイレス出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 == 来歴 == === クラブ === サッカーを本格的に始めたのは16歳頃という、プロにまで登り詰めた選手としては珍しい経歴を持つ。それまではスーパーマーケットに店員として勤務しており、そのスーパーの仲間たちと結成したアマチュアのサッカークラブで活動していた。1998年に地元ベナンシオ・アイレスのグアラニFC (pt) に入団〔「People 150 バレー(大宮アルディージャ)」『週刊サッカーマガジン』ベースボールマガジン社、2001年7月4日号 No.820、38-39頁。〕。1999年10月にウルグアイのデフェンソールに移籍するが、3ヶ月間練習に参加しただけで試合出場はなかった〔。2000年はレンタル移籍でグレミオに在籍し、それが終了した2001年にデフェンソールからJ2・大宮アルディージャに期限付き移籍〔〔21世紀の骨のあるヤツ - 第94回 バレー(サッカー) @ぴあ〕。これがプロとしてのキャリアのスタートだった。当時はC契約で第4の外国人としての扱いだったが〔、他の外国人選手の相次ぐ怪我などでチャンスをつかむ。 翌年、怪我で戦列を離れていたチーム内外国人選手が復帰したために外国人枠からあぶれた関係で、大宮を退団してイタリアのACペルージャへの入団を目指し渡欧し、デンマーク、ウルグアイ、ブラジルのクラブでプレーした後、2003年始めに大宮へ復帰した。 2004年の大宮のJ1昇格にも貢献したが、シーズン終了後に放出される。このときJ1やヨーロッパの幾つかのクラブからオファーを受けたが、J2・ヴァンフォーレ甲府入団をバレー自身が選択した。 Jリーグでプレーしていた頃には公文式に在籍。日本語の勉強をしていた。しかし、記者会見では語弊などを避けるためポルトガル語を使用している。 2005年シーズンは甲府の攻撃の中心としてJ1昇格に貢献した。特に柏レイソルと対戦したJ1・J2入れ替え戦では、12月7日の第1戦(小瀬)で決勝ゴール、12月10日の第2戦(日立柏)ではJリーグの1試合個人最多得点記録となる6得点(ダブルハットトリック)を叩き出した。この試合後に「いろいろ思い出して…」と人目を憚らず号泣した姿は多くのファンに感動を与えた。2006年、J1昇格した甲府で、引き続き攻撃ユニットを牽引。勝利を決定付けるゴールを次々に決め、昇格初年度の甲府J1残留を置き土産に同シーズンをもって甲府を退団し、ガンバ大阪に完全移籍し、3年契約を結んだ〔下園昌記「バレー移籍の真相と中東マネーがもたらす波紋」『Jリーグサッカーキング』フロムワン、2008年10月号、18-21頁。〕。 2007年開幕戦、古巣の大宮相手に途中出場から決勝ゴールを決め、感動の涙を流した。このシーズン、J1リーグ得点ランク2位となる20ゴールを挙げた。2008年8月、アラブ首長国連邦のアル・アハリに完全移籍した。ベナンシオ・アイレスの地元紙によれば移籍金は600万ドル(当時のレートで約6億5千万円)で、そのうち85%がガンバ大阪に、身内がパス(選手保有権)の一部を所有することから、残りの15%が彼自身の手に渡ったという〔。 2010年に同じUAEリーグのアル・ジャジーラに、2012年にはカタールリーグのアル・アラビに移籍した。 2013年シーズンから、清水エスパルスに移籍することが発表された。7月25日、中国スーパーリーグの天津泰達足球倶楽部へ移籍。 2015年5月3日にヴァンフォーレ甲府へ復帰したが、12月をもって退団。〔バレー選手 加入内定のお知らせ ヴァンフォーレ甲府公式サイト 2015年5月3日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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