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ジャヤージー・ラーオ・シンディア : ミニ英和和英辞書
ジャヤージー・ラーオ・シンディア[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャヤージー・ラーオ・シンディア : ウィキペディア日本語版
ジャヤージー・ラーオ・シンディア[ちょうおん]

ジャヤージー・ラーオ・シンディア(Jayaji Rao Scindia, 1835年1月19日 - 1886年6月20日)は、 インドシンディア家の当主、グワーリヤル藩王国の君主(在位:1843年 - 1886年)。
==生涯==
1835年1月19日シンディア家の一族ハヌワント・ラーオ・シンディアの息子として生まれた〔Gwalior 4 〕。
1843年2月7日、当主であり藩王ジャンコージー・ラーオ・シンディア2世が死亡し〔Gwalior 3 〕、その妃によってジャヤージー・ラーオが養子として迎え入れられ、当主および藩王となった〔Gwalior 4 〕。
その後、ジャヤージー・ラーオは摂政である養母の下で統治し、1855年1月19日に彼が成人に達するまでそれは続いた〔Gwalior 4 (ここでは1845年となっているが、そうなると10歳で直接統治をはじめたことになるので、これは誤植であろう。)〕。
1857年5月インド大反乱が勃発すると、ジャヤージー・ラーオはイギリスに味方したが、軍隊は反乱軍に味方してしまった。そのため、1858年6月に居城グワーリヤル城が占拠されると、一時避難しなければならなかった。その後、同月にイギリス軍により城が奪還されると、グワーリヤルに帰還した。
1871年1月1日、ジャヤージー・ラーオはデリー・ダルバールに出席した〔Gwalior 4 〕。このとき、シンディア家に定められた祝砲は19発であったが、21発の祝砲を受けた〔Gwalior 4 〕。
1886年6月20日、ジャヤージー・ラーオは死亡し、息子のマードー・ラーオ・シンディア2世が当主位及び藩王位を継承した〔Gwalior 4 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャヤージー・ラーオ・シンディア」の詳細全文を読む




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