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ジャン=ジャック・デサリーヌ (Jean-Jacques Dessalines,1758年9月20日 - 1806年10月17日)は、ハイチ独立運動指導者、独立後最初の統治者であり、1805年には自らジャック1世として皇帝の座に就いた。今日もハイチ建国の父として敬愛されている。 ハイチ革命において、フランスの植民地だったサン=ドマングで、トゥーサン・ルーヴェルチュールの部下として活躍した。1802年に彼が拘束されると反乱軍の新たな指導者として再蜂起し、1803年11月18日ヴェルティエルの戦いでナポレオンの派遣したドナチアン=マリ=ジョゼフ・ド・ロシャンボー率いるフランス軍を破り、サン=ドマング領内から駆逐した。1804年に独立宣言し、国名をサン=ドマングから先住民であるタイノ人がつけた名であったハイチに変更した。ムラートと黒人の将校による議会から総督に選ばれ、さらにナポレオンに倣って皇帝として即位した。権力を掌握すると報復として白人を大量に殺した。しかし、皇帝になったものの、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺された。 == 生い立ち == ジャン=ジャックはサン=ドマングの北県のグランド=リヴィエル=ドュ=ノールの町の近くのコルミエの村のプランテーションで奴隷として生まれた。両親については伝わっておらず、おばのヴィクトリア・モントゥにトヤと呼ばれ、可愛がられていた。彼女は1805年に亡くなるまで甥と親しくしていた。 ジャン=ジャックは30ぐらいまで農場主のフランス人アンリ・デュクロに仕えた。その頃までは便利なように主人の姓でジャック・デュクロと呼ばれていた。そしてデサリーヌという名の自由黒人に買われ、姓を貰った。主人のデサリーヌは彼によくした。後に1804年に終身総督に就くと宣言した際に彼は元主人のデサリーヌを自宅に招き雇った。ジャン=ジャックは1791年までの3年ほど主人のデサリーヌに仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャン=ジャック・デサリーヌ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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