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ジャンヌレ=ペレ邸(ジャンヌレ=ペレてい、Villa Jeanneret-Perret)またはジャンヌレ邸(ジャンヌレてい、Villa Jeanneret)は、ル・コルビュジエが独立した建築家として最初に手がけた作品である。その外観から「白い家」(la Maison blanche) とも呼ばれるこの邸宅は、彼の出生地であるラ・ショー=ド=フォンに1912年に建てられたもので、元々は両親のために建てられたものであった〔。 私邸として使われ続けたが、2005年に一般公開され、その後、フランスの世界遺産暫定リスト記載物件であり、6か国での共同推薦が行われた「ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献 -」の構成資産にも含められた。 == 歴史 == ル・コルビュジエは1900年に地元の美術工芸学校に進学し、時計職人としての彫金などを学んでいた。1904年には師であるシャルル・レプラトニエが美術装飾高等科を設置しており、そこで学ぶ中で建築への関心も芽生えていった〔暮沢 (2009) pp.15-16〕。 1912年2月に、当時まだ本名のシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ (Charles-Édouard Jeanneret) で活動していたル・コルビュジエは、自分が生を享けた街ラ・ショー=ド=フォンに建築事務所を構えた。この年に25歳になった彼は、レプラトニエや地元のアール・ヌーヴォーの様式スティル・サパン ("Style sapin") とは距離を置くようになっていた。彼は東欧やオリエントを旅して回り、地中海の建築的伝統を見出すとともに、モダニズム建築の担い手たちと接点を持った。 白い家は彼にとって最初の自由でかつ個人的な作品である。それは両親のために建てられたもので、彼らは1912年11月にその所有権を手に入れた。ル・コルビュジエ自身も1917年まではそこで生活し、仕事もした。 この家の建築費がかさんだ一方、ジャンヌレ家は時計製造業に携わっていた父親の仕事が振るわず、母親のピアノ教師としての収入によって支えられていた〔。そうした事情も関わって、1919年にジャンヌレ家は引越し、売りに出された邸宅はジュケール (Jeker) という人物の手に渡った〔。ル・コルビュジエは売却後の室内装飾にもこだわりを示し、ジュケールに対し、自身の構想に合うアンティークや、自身の設計した家具などを購入するように勧めていた〔加藤 (2008) pp.112-114〕〔暮沢 (2009) pp.214-215〕。 その後も2000年までは所有者が何度も変わったが、その後設立された「白い家」協会が管理を行い〔、修復工事を行なって2005年に一般公開された。 2009年に「ル・コルビュジエの建築と都市計画」に含まれる22件のうちの1つとして世界遺産委員会に推薦されたが、「情報照会」と決議された。2011年に「ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献 -」と改訂されて再推薦された19件にも含まれていたが、「登録延期」と決議され、世界遺産への登録には至らなかった〔(文化庁プレスリリース、2011年6月29日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャンヌレ=ペレ邸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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