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ジャンヌ・ド・リュクサンブール(Jeanne de Luxembourg, ? - 1430年9月18日)は、百年戦争期のフランスの貴族女性。サン=ポル女伯およびリニー女伯(1430年)。サン=ポル伯およびリニー伯ギーとその妻マオー・ド・シャティヨンの間の娘。捕虜となったジャンヌ・ダルクをイングランド軍への引き渡そうとした甥のボールヴォワール領主ジャンに反対した。 フランス王シャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエールに侍女として仕え、王妃の末息子シャルル7世の洗礼の代母も務めた〔R・ペルヌー、M・V・クラン『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年、P182〕。生涯独身を通し、人々には「リュクサンブール嬢(''Demoiselle de Luxembourg'')」と呼ばれた。1430年当時は、甥のボールヴォワール領主ジャンが所有する居城のに同居していた。ブルゴーニュ軍の捕虜となったジャンヌ・ダルクが同年7月11日に居城に身柄を預けられると、甥の妻ジャンヌ・ド・ベテューヌ(Jeanne de Béthune)らと共に彼女の身の回りの世話をした。 8月4日、兄ワレラン3世の孫にあたるブラバント公フィリップ・ド・サン=ポルが子供のないまま死ぬと、相続協定に基づいてジャンヌがフィリップからサン=ポル伯領とリニー伯領を継承した。ジャンヌの相続人は甥のブリエンヌ伯ピエールであったが、彼女はピエールの弟で同居するジャンの方を可愛がっており、兄にサン=ポル伯領を、弟にリニー伯領をそれぞれ分与することを決めた〔ペルヌー、前掲書、P183〕。ジャンヌは捕虜ジャンヌ・ダルクの世話をするうちに彼女に好感を抱くようになり、甥ジャンがジャンヌ・ダルクをイギリス軍に引き渡すことに反対し、身柄を引き渡せばリニー伯領の相続を白紙に戻すとほのめかした〔竹下節子『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』講談社現代新書、1997年、P178〕。 9月初旬、毎年の習慣だった弟ピエール枢機卿の墓参りのためにアヴィニョンに向かい、9月18日に同地で没した〔ペルヌー、前掲書、P186〕。甥ジャンは伯母の死でリニー伯領を獲得すると、まもなくジャンヌ・ダルクをイングランド側に引き渡した。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャンヌ・ド・リュクサンブール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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