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尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - )は、日本のプロゴルファー、元プロ野球選手。本名およびプロ野球時代の登録名は尾崎 正司(読みは同じ)。徳島県海部郡宍喰町(後の海陽町)出身。 「ジャンボ尾崎」(ジャンボおざき)の別名でも知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された〔該当リンク (インターネット・アーカイブ2004年12月5日付保存キャッシュ)〕。世界ランキングの自己最高位は1997年ブリヂストンオープン優勝後の5位。日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝(日本プロ6勝、日本マッチプレー1勝、フィランソロフィー1勝、日本オープン5勝、日本シリーズ7勝)は歴代最多記録。通算優勝回数113回は世界プロツアー最多記録。2010年には世界ゴルフ殿堂入りを果たした。2013年には日本男子レギュラーツアー史上初のエージシュートを、年齢より4打低いスコアで達成した〔ゴルフ:66歳尾崎将司がエージシュート 史上初の快挙 毎日新聞 2013年04月25日〕。 == 経歴 == === 野球 === 元は野球で世間にその名を知られた人物である。高校時代には徳島県立海南高等学校(現在の徳島県立海部高等学校)で投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し、小川邦和のいた広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場初優勝を成し遂げた。 にプロ野球の西鉄ライオンズへ入団。投手として活動していたが、同期入団した池永正明の投球を見た際「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と打者(外野手)に転向。二軍では4番を張るものの、一軍では目立った活躍もなく、12月23日に当時西鉄の監督だった中西太に退団を申し出る。期待した選手が僅か3年での退団申し出に激怒した球団社長から越年で慰留されるも、「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」という尾崎は翻意せず、結局西鉄を退団する。 打撃コーチの花井悠にゴルフ転向を進められ〔 * 元プロ野球西鉄ライオンズ選手、花井悠さん死去 - 『asahi.com』おくやみ 2007年12月14日13時3分(インターネット・アーカイブ2007年12月17日付保存キャッシュ) * 元プロ野球西鉄ライオンズ選手の花井悠さん死去 - 『asahi.com』関西 関西のおくやみ 2007年12月14日〕〔元西鉄外野手の花井悠さん死去 - 『nikkansports.com』野球ニュース 2007年12月15日9時18分 紙面から〕、プロゴルファー転向を決意するが、退団時の騒動のため、西鉄の息のかかった九州では活動できなくなり、プロを目指して修行していたカントリークラブを突然クビになった尾崎は、婚約者を残して独り千葉のカントリークラブへと旅立っていった〔。1970年4月にプロテスト合格。正式にプロゴルファーに転向した。この時に名前も心機一転、本名の「正司」から「将司」に改名した。 プロゴルファー転向から約31年後の2001年には、OBによるリーグとして発足したプロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズへ入団。登録名は「尾崎 将司」〔外部リンク(プロ野球マスターズリーグオフィシャルサイト内プロフィール)を参照。〕、背番号は22〔、ポジションは外野手〔として2003年度(同年オフ - 2004年初旬)まで所属していた〔参考外部リンク(プロ野球マスターズリーグオフィシャルサイト内福岡ドンタクズメンバー一覧): * 2004年8月当時のページ (インターネット・アーカイブ2004年8月17日付保存キャッシュ) ※尾崎の名が明記された最後の保存版 * 2004年10月当時のページ (インターネット・アーカイブ2004年10月14日付保存キャッシュ) ※尾崎の名が除外された最初の保存版 〕。出場は初年度のみで、3試合出場(打席数5)、打率.200(5打数1安打、1二塁打)の成績に終わっている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎将司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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