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ジャンルイジ・ブッフォン : ミニ英和和英辞書
ジャンルイジ・ブッフォン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジャンルイジ・ブッフォン : ウィキペディア日本語版
ジャンルイジ・ブッフォン

ジャンルイジ・ブッフォン(Gianluigi Buffon, 1978年1月28日 - )は、イタリアカッラーラ出身のサッカー選手セリエAユヴェントスFC所属。イタリア代表。ポジションはゴールキーパー
日本においては『ジャンルイジ・ブフォン』と表記されることもある〔日刊スポーツ読売新聞提供のYOMIURI ON-LINE など〕。愛称ジジ(Gigi)。
== 来歴 ==

=== クラブ ===
1991年にパルマACのエルメス・フルゴーニGK育成コーチ兼スカウトに見いだされ、同チームの下部組織に入団した。
1995-96シーズンでは、下部組織入団からわずか4年でネビオ・スカラ監督によって、パルマのトップチームに昇格。その時まだ17歳だった。1995年11月19日ファビオ・カペッロ監督率いるACミラン戦でセリエAデビュー(17歳9ヶ月)。その試合でこの年のバロンドールを受賞するジョージ・ウェアの至近距離からのシュートを顔面でセーブするなどスーパーセーブを連発し、0-0の引き分けに貢献した。このシーズンは9試合に出場した。
1996-97シーズンでは、正GKとしての地位を確固たる物とし、ステファーノ・トリージリリアン・テュラムファビオ・カンナヴァーロと共に強固な守備陣を形成。チームはセリエA2位に躍進した。
1998-99シーズンでは、堅守を武器にチームはコッパ・イタリア優勝、UEFAカップ優勝、イタリア・スーパーカップ優勝を達成した。
2000-01シーズンでは、このシーズンにおいて自身初となるセリエA全試合出場を果たし、2001年7月2日、GKとしては史上最高額の移籍金となる5230万ユーロ(約56億円・当時)でマルチェロ・リッピ監督(前イタリア代表監督)率いるユヴェントスFC(以下ユーヴェと表記)に加入。当初はGKにこれほど多額の移籍金を支払ったユーヴェに懐疑的な見方をする専門家が多かったが、「サッカーをよく理解していない者の戯言」とブッフォンは反論し、その年のスクデット獲得に大きな貢献をする。
2002-03シーズンでは、セリエA連覇を達成。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝2nd legのレアル・マドリード戦でルイス・フィーゴPKを止めるなど活躍し、決勝進出。しかし、オールド・トラフォードで行われたミランとの決勝戦でPK戦の末に敗れて準優勝に終わった。なお、このシーズンはUEFAチャンピオンズリーグのMVP(GKとしては史上唯一)と最優秀GKに選出されている。
2004年3月FIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表ペレが選出したFIFA 100(偉大なサッカー選手125人)に選出される。
2005-06シーズンでは、8月14日に行われたミランとの親善試合でカカと激突し、右肩を脱臼。長期の戦線離脱を余儀なくされ、ユーヴェはその代役としてクリスティアン・アッビアーティをミランから獲得。一旦、同年12月1日コッパ・イタリアフィオレンティーナ戦で復帰するが、ファビオ・カペッロ監督のまだ十分に回復していないとの判断により、その後の試合には出場せず。1月15日レッジーナ戦で再度復帰。以降は正GKの座を奪還した。
2006年6月-7月に、カルチョ・スキャンダルでイタリアサッカー界が揺れる中、ブッフォン自身にも違法なサッカー賭博に関与したのではないかとの容疑が掛かり、パルマ地検とトリノ地検から事情聴取を受ける(後に無実であることが判明)。
2006年8月、所属チームであるユーヴェの八百長行為によりチームがセリエBへ降格することが決定し、ファビオ・カンナヴァーロジャンルカ・ザンブロッタなど多くのチームメイトが移籍していく中、アレッサンドロ・デル・ピエロパベル・ネドベドらと同じくユーヴェに残留する意向であることを代理人を通じてラジオで発表した。
2006年11月2006 FIFAワールドカップでの活躍によりバロンドール受賞が噂されたが、投票の結果2位に終わり、イタリア代表のチームメイトであるファビオ・カンナヴァーロにその栄誉を譲った。
2006-07シーズンでは、チーム最多となる38試合に出場し、ユーヴェをセリエB優勝に導いた。シーズン中からUEFAチャンピオンズリーグ出場のため、他チームへ移籍するのではないかと噂されたが、シーズン終了後にユーヴェとの契約を2012年まで延長した。
2007-08シーズンでは、2008年3月14日にユ-ヴェとの契約を2013年まで延長した。
2009-10シーズンでは、シーズン開幕から好調を維持していたが、2009年12月12日に左半月板の手術を行った。
2010-11シーズンでは、2010 FIFAワールドカップのイタリア代表メンバー23人に選ばれたが、連覇を狙ったこの大会でグループリーグ初戦のパラグアイ戦で負傷退場。その後、椎間板ヘルニアのため手術を受けた。11月に練習に復帰し、12月にはベンチ入りも果たしたが暫くはマルコ・ストラーリの控えとして過ごした。2011年1月14日コパ・イタリア5回戦のカルチョ・カターニャ戦で実戦復帰。その後1月16日ASバーリ戦でリーグ戦初出場を果たした。このシーズンは、本来のプレーには程遠く移籍後最少の16試合の出場に留まり、チームも7位に沈んでチャンピオンズリーグはおろかヨーロッパリーグの出場権すら獲得できなかった。
2011-12シーズンでは、久々にシーズン開幕から好調を維持し、セリエAでチーム2番目となる35試合に出場した。チームはセリエA最小失点(20失点)で2002-03シーズン以来9年ぶりの優勝(38戦無敗)に大きく貢献した。また、個人的にもサッカー統計組織「国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)」が21世紀のベストGKランキングを発表し、見事1位に輝いた〔IFFHS国際サッカー歴史統計連盟 〕。
2015-16シーズンでは、2016年3月20日のトリノFCとのトリノダービーで1993-94シーズンに元イタリア代表GKセバスティアーノ・ロッシが記録した929分のセリエAにおける無失点記録を更新する「974分」の無失点記録を達成。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャンルイジ・ブッフォン」の詳細全文を読む




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