翻訳と辞書
Words near each other
・ ジャン・ティガナ
・ ジャン・ティロール
・ ジャン・ティンゲリー
・ ジャン・ディュドネ
・ ジャン・ディュドンネ
・ ジャン・デガエターニ
・ ジャン・デスペロー
・ ジャン・デスポー
・ ジャン・デトワイラー
・ ジャン・デポー
ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン
・ ジャン・デュジャルダン
・ ジャン・デュドネ
・ ジャン・デュナン
・ ジャン・デュビュッフェ
・ ジャン・デュマ
・ ジャン・デュヴュザー
・ ジャン・デルサルト
・ ジャン・デルヴィル
・ ジャン・デヴィリアス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン : ミニ英和和英辞書
ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン : ウィキペディア日本語版
ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン[らん]

ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン1595年1600年 - 1676年10月28日)は、17世紀フランス劇作家。本名:ジャン・デマレ。宰相リシュリューの庇護を受けたことを契機として絶大な信頼を獲得し、デマレもその信頼に応えて忠実に仕え続け、その功績を讃えられて貴族にまでなった。デマレの戯曲はすべてリシュリューの命令によって製作されたもので、リシュリュー尊崇の念が溢れている。フランスで最初に機械仕掛けを用いて舞台転換を行うなど、進取の気性にも富んでいた。この技法は単一を求める古典劇の風潮には抗えず、一時的に埋もれることになるが、後のオペラバレエにおいて存分に活かされている。''、1595年1600年 - 1676年10月28日)は、17世紀フランス劇作家本名:ジャン・デマレ宰相リシュリューの庇護を受けたことを契機として絶大な信頼を獲得し、デマレもその信頼に応えて忠実に仕え続け、その功績を讃えられて貴族にまでなった。デマレの戯曲はすべてリシュリューの命令によって製作されたもので、リシュリュー尊崇の念が溢れている。フランスで最初に機械仕掛けを用いて舞台転換を行うなど、進取の気性にも富んでいた。この技法は単一を求める古典劇の風潮には抗えず、一時的に埋もれることになるが、後のオペラバレエにおいて存分に活かされている。
== 生涯 ==
彼の幼年~青年期については、一切わからない。生年にも1595年、1600年の2説があり、確定していない。パリの平民出身で、近い親戚にランブイエ侯爵夫人と親しい、ヴィジャン男爵夫人という女性がいたので、その女性を介して貴族社会にデビューし、宮廷人と交際を結んだことくらいしか分かっていない。近年研究が進められているが、依然不明なことが多い作家である〔 フランス十七世紀の劇作家たち 研究叢書52,中央大学人文科学研究所編,P.249,中央大学出版部,2011年〕。
フランソワ・ド・マレルブの1613年の書簡には、「マレ(''Maret'')という男が羊飼いに扮して踊り、人々を笑わせていた」とある。このマレなる名前の道化をデマレ・ド・サン=ソルランであると考え、その男が有名になる過程を宮廷バレエの歴史などを考慮して仔細に検討すると、およそこの男は1600年ころの生まれであると結論付けることができる。これはデマレ・ド・サン=ソルランの生涯についての研究の簡潔な要約だが、生年1600年説はこれによるものである。だがこの説が正しいとなると、1613年にはまだわずか13歳の子供であることになるから、あまりに幼い少年が宮廷で道化を演じることが果たして出来たかどうか、という疑問が出てきて当然である。結局、決定的な説ではないので、まだまだ証拠や精査が必要である〔Ibid. P.250-1〕。
デマレの名前が初めて文献に登場するのは、1631年のことである。アカデミー・フランセーズは、文学者たちがルイ13世王室秘書のヴァランタン・コンラール邸で会合を持っていたことを起源とするが、その会合において彼の名前は初登場する。1632年にデビュー作『アリアーヌ』を、翌年に『詩論』を発表し、成功を収めた。この2作の成功は宰相リシュリューの注目を惹き、これを契機にデマレはリシュリューに仕えることとなった。リシュリューは宰相となってすでに8年が経過していたが、依然その権力基盤が不安定であったため、偉大な国家フランスの芸術文化の庇護にもっと力を割きたいと考えていた頃で、デマレはちょうどその時期にタイミングよく成功を収めたのであった〔Ibid. P.252〕。
1634年に宰相リシュリューに仕え始めてから、宰相の話し相手を務めるなど、彼を癒し、楽しませる仕事に従事していたという。要は個人的な側近であったわけで、この時代の宮廷や社交界の逸話を多く記したタルマン・デ・レオーによれば、この側近の役割はデマレとボワロベールの2人だけが担っていたという。デマレは言葉巧みに宰相を笑わせていたので、ボワロベールは彼を憎み、苦しんでいたとのことである。だが、ボワロベールも宰相を笑わせるという任務に忠実な点で、負けてはいなかった。以下はタルマン・デ・レオーが紹介するデマレの逸話、ジョークである〔Ibid. P.252〕〔以下はIbid. P.252から引用〕:
このような記録も、若いころからデマレが宮廷で道化役を演じていたことの証左として用いられている〔Ibid. P.253〕。そして、以下はボワロベールのものと伝えられる逸話である。コルネイユの『ル・シッド』をもじったジョークであり、現代フランスでも時折使われることがある〔Ibid. P.253,引用も同ページから〕:
()内がジョークの内容、「」が原文である。本来『ル・シッド』中では、父親は「du coeur」を勇気という古語の意味で用いている。ところがこのジョークでは、ロドリーグは「du coeur」をトランプのハート札という意味で解釈しており、つまりそれに答えて「ダイヤしかない。」と答えているというわけである。ボワロベールの機智を示すこのジョークに、宰相を始め、その取り巻き立ち一同は大笑いしたという〔Ibid. P.253-4〕。
デマレはアカデミー・フランセーズ設立の準備にもあたり、1635年の発足後は初代の事務総長として1638年までその任を務めた。この頃は劇作においてもリシュリューの意向に従って劇作に励んでおり、彼の演劇関係の作品はすべてこの時期に生み出された。戯曲のデビュー作『アスパジー』は平凡な作品であったが、それなりに成功した。第2作目の『妄想に囚われた人々』は彼の喜劇作品を代表するものとなった。1642年のリシュリュー死後は、演劇に関するものは何一つ制作していない。この事実から推察するに、おそらく演劇の仕事はすべて宰相リシュリューからの注文、あるいはリシュリュー提出の主題を取り上げたものであったと考えられる。デマレは間違いなく宰相付きの座付き作家であったのだ〔Ibid. P.254〕。
宰相付きの劇作家であったことが、内容に如実に表れるのは、最後の戯曲『ウーロップ』である。この作品に付随する宮廷バレエにおいて、三十年戦争においてフランスの立場を守り抜くという政治的な意図を、寓意として表現した。こうしたリシュリューへの忠実な奉仕への見返りとして、デマレはリシュリュー家の筆頭執事、王室顧問官、海軍事務局長など地位の高い官職にも任命されたのだった。こうした要職を得たことで、デマレのリシュリューに対する忠誠心はより強固なものとなり、彼のために詩作に励むこととなったのである〔Ibid. P.255〕。
宰相の死後も、デマレはリシュリュー家に忠実であり続けた。ポワトゥー=シャラント地域圏の家に入り、宰相の息子の後ろ盾として働いた。その功績が評価され、1651年、息子のリシュリュー公爵からサン=ソルランの土地を与えられ、貴族の称号を得た。こうして優れた劇作家ジャン・デマレは、貴族ジャン・デマレ・ド・サン=ソルランととなったのである。1653年にパリに戻った〔Ibid. P.255〕。
パリに戻ってからは、ますますネオプラトニズムのような考え方を強めていった。リシュリュー公爵夫人に献呈された『リシュリューの散歩、あるいはキリスト教の美徳』を1653年に著したのをはじめとして、1658年には『魂の悦び』を著した。この作品においてキリスト教を賛美し、その精神的な価値を高く評価して、この点にこそ文学的な美があると主張した。であるから、古代の異教作家を模倣する人を非難し、古代を手本とすべきではないとも主張した。これが「新旧論争」の端緒となっている〔Ibid. P.255-6〕。
1669年には、聖書に基づいた詩集『マリー=マドレーヌ、あるいは恩寵の勝利』を発表し、その翌年に『エステル』を著した。この中でボワローの推奨する古典主義と対比して、キリスト教芸術の親密さと素晴らしさを論じた。1674年、ボワローが『詩法』において古代を礼賛したことに反駁すべく、同年『英雄詩の擁護』をボワローへの反論として公表した。さらに翌年『フランス詩とフランス語の擁護』を著し、シャルル・ペローに論争参加を呼びかけたことで、ここに「新旧論争」が始まった〔Ibid. P.256〕。
デマレの思想は神秘的であったが、あまりに狂信的でもあった。そのため論敵からは狂人扱いされ、『妄想に囚われた人々』のようであるとの誹りを受けた。1676年、パリで亡くなった〔Ibid. P.257〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.