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ジャン・バティスト・シメオン・シャルダン : ミニ英和和英辞書
ジャン・バティスト・シメオン・シャルダン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジャン・バティスト・シメオン・シャルダン ( リダイレクト:ジャン・シメオン・シャルダン ) : ウィキペディア日本語版
ジャン・シメオン・シャルダン

ジャン・シメオン・シャルダンJean-Baptiste Siméon Chardin, 1699年11月2日 - 1779年12月6日)は、ロココ時代のフランス画家
== 生涯 ==
1699年、パリで家具職人の父親のもとに生まれた〔この節の伝記的事実は以下を参照:ピエール・ローザンベール(伊藤已令訳)「シャルダン略年譜」(『シャルダン展 静寂の巨匠』図録、三菱一号館美術館、2012);Philip Conisbee, "Chardin, Jean-Siméon" (''Grove Art Dictionary'', Oxford UP, 2007);Philip Conisbee, ''Chardin'' (Oxford: Phaidon, 1985)〕。1718年から歴史画を得意としていたカーズ(Pierre-Jacques Cazes)の工房に入って画業を開始。1720年にはコアペル(Noël-Nicolas Coypel)にも短期間師事し、その間に静物画を描く助手をつとめたことがあるらしい。
1728年に《赤エイ》で認められて王立絵画・彫刻アカデミーの正会員となったが、その後も生計を立てるためフォンテーヌブロー宮殿の修復作業などに参加している。30年頃から静物画の作品が増え、台所の食器類や食材などを題材とする作品が制作されている。
31年からはサロン(官展)に出品を開始。この年にマルグリト・サンタールと結婚、11月には息子ジャン=ピエールが洗礼を受けている。
33年頃からは風俗画の作品が増え始め、その大半が食卓の情景やカード遊びに興じる子供などセーヌ左岸の日常生活を主題とする。35年、妻が死去。40年ヴェルサイユ宮へ参内して献上した《働き者の母》と《食前の祈り》はシャルダンの作品としては特に知られている。44年にフランソワ=マルグリト・プジェと再婚。
1752年以降、国王の年金を受けており、また55年からはアカデミーの会計官をつとめたほかサロンの陳列委員も任され、57年ルーヴル宮殿にはアトリエ兼住居を授かっている。これは絵画のなかで歴史画に最高の価値が置かれていた当時、風俗画家としては異例の名誉で、彼の作品の買い手や注文主の多くも、国内外の王侯貴族だった〔鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社、1995, p. 16 〕。とくにエカチェリーナ2世は、サンクト・ペテルブルクにあるアカデミーの建物のために装飾画を注文しているし、他にも風俗画を含む数点のシャルダン作品を所有していた(《芸術の寓意とその報償》など)。
晩年は息子の溺死 (1772年)、アカデミー会計官の解任 (1774年)と不遇が続き、1779年に死去した。作品総数は201点〔Pierre Chardin: ''Tout l'oeuvre peint de Chardin'' (Paris; Flammarion, 1983)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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