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ジャン・フィリップ・ラモー : ミニ英和和英辞書
ジャン・フィリップ・ラモー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャン・フィリップ・ラモー ( リダイレクト:ジャン=フィリップ・ラモー ) : ウィキペディア日本語版
ジャン=フィリップ・ラモー[ちょうおん]

ジャン=フィリップ・ラモーJean-Philippe Rameau, 1683年9月25日 - 1764年9月12日)は、フランスバロック音楽作曲家音楽理論家。フランス語オペラの作曲家としてジャン=バティスト・リュリに取って代わったが、ジャン=ジャック・ルソーによって攻撃されることとなった。
== 生涯 ==
父親がディジョン大聖堂のオルガニストだったので、幼児期からクラヴサン演奏に親しんでいた可能性がある。しかしながらもともとは法学を学んでおり、はじめ音楽と音楽研究は情熱の対象にすぎなかった。青年時代をイタリアパリにすごした後、父親の足跡に続いてクレルモン大聖堂の教会オルガニストに就任した。その後パリ、ディジョン、リヨンなどでもオルガニストを務め、1723年よりパリに定住、財務官ラ・ププリニエール家の後援を得る。作曲の分野において名声を勝ち得るようになるのは、40代になってからだったが、1733年クープランが他界するまでには、当時のフランス楽壇の指導的作曲家になっていたと言ってよい。その頃からラモーは専ら歌劇に没頭するようになる。
数々の歌劇ヴォルテールと共作し、とりわけ《ナヴァールの姫君''La Princesse de Navarre'' 》によってラモーは「フランス王室作曲家」の称号を獲得した。その弟の長男ジャン=フランソワ・ラモーは、ディドロの小説『ラモーの甥』のモデルになっている。
根音転回形といった概念を用いて機能和声法調性を体系的に理論化した最初の音楽理論家としても有名。ハーモニーという語を和音和声の意味で用いる習慣は、ラモーにさかのぼる(『和声論''Traité de l'harmonie'' 』〔1722年〕、『音楽理論の新体系''Nouveau système de musique théorique'' 』〔1726年〕)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャン=フィリップ・ラモー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jean-Philippe Rameau 」があります。




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