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ジャン・プルーヴェ(Jean Prouvé, 1901年4月8日 - 1984年3月23日)は、フランスの建築家、デザイナー。建築生産の工業化に大きな役割を果たした。 オリジナルのヴィンテージ家具の中にはオークションで数千万の値段がつくものもざらにあり、世界中のセレブがこぞってコレクションしている、 海外ではブラッド ピッド、マーク ジェイコブス、国内ではNIGO、TETSUYA(L'Arc-en-Ciel)等がコレクションしていることでも有名。 == 経歴 == ジャン・プルーヴェは1901年、フランス、パリに生まれた。父、ヴィクトール・プルーヴェはナンシー派の工芸家であり、親交があったエミール・ガレは、ジャンの名付け親でもある。母マリー・デュアメルはピアニスト。ジャンは、アール・ヌーヴォーの一大拠点であったナンシーの地で多くの工芸品に囲まれて育つことになる。ジャンが特定の様式にとらわれることはなかったが、「私は芸術家と学者の世界で育ち、その世界は私の心にたくさんの栄養を与えてくれた。」という彼自身の言葉が示すように、ナンシー派からの影響は決して小さくはない。 1916年、金属工芸家、エミール・ロベールのもとに弟子入り。その後、アダルベール・サボーの工房に移る。パリの鉄工所で働いたり、騎兵隊への従軍経験などを経た後、1923年に独立。自らの工房・スタジオをナンシーに構え、鉄製のランプやシャンデリア、階段の手摺などの製作・デザインを手掛けた。1925年、父の弟子であった画家、マドレーヌ・ショットと結婚。1927年、ロベール・マレ=ステヴァンスからレーファンベール(ライフェンベルク)邸の入り口格子のデザイン・制作の依頼を受けたことを契機として、ル・コルビュジエを中心とするサークルと関係を持つようになり、1930年、マレ=ステヴァンス、ル・コルビュジエ、シャルロット・ペリアンらと共に、「ロジックとバランスと純粋性」をマニフェストに掲げる現代芸術家連盟(Union des artistes modernes)の創立メンバーとなる。 1931年、義兄アンドレ・スコットと共同で、アトリエ・ジャン・プルーヴェを開設。工作機械を大量に購入。ナンシー大学に家具やドアを納めている。フランスの建築家ウジェーヌ・ボードゥアン、マルセル・ロッドらとの共作で、初期の代表作である建築作品、クリシー人民の家を手掛ける。1937年のパリ万博には、ル・コルビュジェやピエール・ジャンヌレと共同製作したバスルームを出品した。 戦時中は、レジスタンス運動に積極的に関わった。その政治活動は広く知られるところであり、1944年にはナンシー市長に選出された。他にも解放後諮問会議や、技術教育部門監査員など、公的な役職を歴任している。 1947年、ナンシー郊外のマクセヴィルに新工場を開設。家具の製造を続けると共に、建築部材としてのアルミの可能性を追求する。アルミ製のプレファブ小屋を何百棟も製造し、アフリカに送付した。マクセヴィルの工場の株主となったフランスアルミニウム公社と衝突し、組織再編とともに工場を去ることになる。 1957年、ジャン・プルーヴェ建設を設立。パリに活動拠点を移し、Conservatoire National des Arts et Metiersにて13年の間、教職にも就いた。1971年、パリ、ポンピドゥー・センターの国際設計コンペにおいて審査委員長を務め、リチャード・ロジャースとレンゾ・ピアノによる案を一等に選出する。 1984年3月23日、故郷であるナンシーにて息を引き取った。82歳であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャン・プルーヴェ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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