|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini,1598年12月7日-1680年11月28日)は、バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家。 「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。人々は彼の作品を「芸術の奇跡」と絶賛した。 1984年から1999年まで発行された50000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣の裏面に肖像が採用されていた。 == 生立ち == ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、1598年12月7日に彫刻家ピエトロ・ベルニーニ(Pietro Bernini,1562年5月6日-1629年8月29日)の子としてナポリに生まれた。彼の父親は、フィレンツェ郊外に生まれたトスカーナ人であったが、ジャン・ロレンツォが誕生する少し前に、サン・マルティーノのカルトゥジオ会修道院で仕事をするため、ナポリ人の妻アンジェリカ・ガランテと共に、ナポリへと移り住んでいたのである。〔Gallery.ca 〕〔Gale, Thomson. ''Gian Lorenzo Bernini'' Encyclopedia of World Biography, 2004.〕 1605年に一家はローマに戻り、ピエトロは枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの保護を得て、息子ジャン・ロレンツォの早熟な才能を彼に示す機会を得たのである。 ピエトロは、教皇パウルス5世のために仕事をし、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の洗礼堂に≪聖母被昇天≫を表した大理石の浮彫を制作した。さらにフラミニオ・ポンツィオの後援のもと、同聖堂内の教皇パウルス5世とクレメンス8世の墓を収容することになっていたパオリーナ礼拝堂において、他の画家・彫刻家たちと共に一連の装飾計画に参加し、1611年に≪クレメンス8世の戴冠≫を高肉彫りで制作した。後に、この大聖堂内にジャン・ロレンツォ・ベルニーニの墓所が設けられる。 これら父親の仕事は、若きジャン・ロレンツォ・ベルニーニにとって、複数の芸術家による制作の体制や、彫刻と絵画が一体になった図像学的・建築的計画の融合を学ぶ絶好の機会であり、後のジャン・ロレンツォ自身の仕事に反映されることになる。 17世紀初頭のローマは、並はずれた才能をもつ芸術家たちの熱気にあふれる芸術的革新に満ちた時期であった。一方では自然主義的なカラヴァッジオの絵画や、カラッチ派の古典主義的なアカデミズムが、他方ではルーベンスの芸術がバロックへの道を切り開いていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|