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ジャン=ピエール・ヴェルナン(Jean-Pierre Vernant、1914年1月4日 - 2007年1月9日)はフランスの歴史学者、人類学者。専門は古代ギリシアおよびギリシア神話。神話学的研究から始まり、政治哲学的な考察まで幅広く展開した。コレージュ・ド・フランス名誉教授。 == 生涯 == フランスのセーヌ=エ=マルヌ県にある都市プロヴァンに生まれる。父親は哲学のアグレジェで地方新聞『ブリ地方』(Le Briard)の編集長を務めていたが、第一次世界大戦に志願兵として参加し、戦死した。このためヴェルナンは父の顔を知らず、母も8歳の時亡くなった。 パリの名門校リセ・カルノやルイ・ル・グランで学んだ後、哲学の勉強を志し、ソルボンヌ大学に入学。これには1935年に哲学のアグレガシオンを取得した兄の影響もあったかもしれない。1937年、兄同様、哲学のアグレガシオンを首席で合格した。 ヴェルナンは共産党青年団(Jeunesses communistes)に加盟し、第二次世界大戦中はレジスタンス運動に参加した。1937年および1939年に兵役を受けた後除隊されていたが、トゥールーズのリセで教師を務める傍ら、1940年7月からレジスタンス活動を開始。まずエマニュエル・ダスティエ・ド・ラ・ヴィグリの指揮する南部解放同盟(Libération-Sud)に加入した後、「ベルティエ連隊長」の変名でオート=ガロンヌ県で内地フランス軍(Forces françaises de l'intérieur)の指揮を執った。ヴェルナンは当時の功績により「コンパニオン・ド・ラ・リベラシオン」(compagnon de la Libération)という勲章を得ている。 1948年にCNRS(フランス国立科学研究センター)に採用された後、ルイ・ジェルネの薫陶で古代ギリシアの人類学的研究を開始。1958年からパリの高等研究実習院第6セクション(後の社会科学高等研究院EHESS)の教授を務めた。1964年には社会科学高等研究院内に古代社会比較研究センター(Centre de Recherches Comparées sur les Sociétés Anciennes、ヴェルナンの師の名をとって、Centre Louis Gernetと名付けられた)を創設した。1975年から1984年までコレージュ・ド・フランス教授。古代ギリシャ研究を通じて、当時のギリシャ人と現代西欧人の共通点と相違点を明らかにする一方、デモクラシー(民主主義)概念の相違など政治哲学的な考察も活発におこなった。シカゴ大学(アメリカ)、ブリストル大学(イギリス)、ブルノ大学(チェコ)、ナポリ第一大学(イタリア)、オックスフォード大学(イギリス)、クレタ大学(ギリシャ)、ブルガリア大学(ブルガリア)から名誉教授号を贈られている。 ヴェルナンは戦争終結後もフランス共産党にとどまっていたが、1969年に離党。その後も「平和と非暴力の文化を創造する十年のための連絡会議」(Coordination française pour la Décennie) de la culture de paix et de non-violence)の呼びかけ人を務めたり、2001年に創設された平和基金「非暴力21」(Non-Violence XXI)を支援するなど、市民運動に注力した政治的知識人といえる。 2007年1月9日、オー=ド=セーヌ県の小都市セーヴルにある自宅で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャン=ピエール・ヴェルナン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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