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ジュスティーヌ・エナン=アーデン : ミニ英和和英辞書
ジュスティーヌ・エナン=アーデン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジュスティーヌ・エナン=アーデン ( リダイレクト:ジュスティーヌ・エナン ) : ウィキペディア日本語版
ジュスティーヌ・エナン[ちょうおん]

ジュスティーヌ・エナン(''Justine Henin'', 1982年6月1日 - )〔"5度目の栄冠へ視界良好 復活女王、途切れた記録をもう一度 " 2010年 - WOWOWオンライン〕は、ベルギーリエージュ出身の女子プロテニス選手〔"Justine Henin (Belgian tennis player) " - ブリタニカ百科事典〕。WTAツアーで4大大会7勝を含むシングルス41勝、ダブルス2勝を挙げた。身長167cm、体重57kg(2011年時点〔"「年をとるのではなく、成熟すると考えたい」 通算8つ目のグランドスラムを狙う28歳の元女王 " 2011年 - WOWOWオンライン〕)。比較的小柄な身体から飛び上がって打つ独特な片手打ちバックハンド・ストロークと、類い稀なフットワークを最大の武器にした。2002-2006年の選手登録名は、「ジュスティーヌ・エナン=アーデン」(''Justine Henin-Hardenne'')。また、2001年全仏オープンまでは、日本の新聞一般表記は「ジャスティン・ヘニン」であった。
== 選手経歴 ==
エナンは、2歳の時に初めてテニスのラケットを握り、6歳から専門的な指導を受け始めた。彼女はちょうど10歳になった時、母親と一緒に1992年全仏オープンの女子シングルス決勝を会場で観戦し、グラフとモニカ・セレシュの熱闘に深い感動を受けた。この試合を一緒に見た母親は、1995年2月に癌で死去してしまい、ジュスティーヌは父子家庭で育つことになる。14歳の時にコーチのカルロス・ロドリゲスと出会い、ずっと彼の指導を受けていた。
1997年、ジュニアテニス選手の登龍門と言われる「オレンジボウル選手権」に15歳で優勝。同年の全仏オープン女子ジュニアシングルスでカーラ・ブラックジンバブエ)を 4–6, 6–4, 6–4で破り優勝。
1999年、プロ入り。5月に故国のアントワープで開催された「ベルギー・オープン」で、ツアー初優勝を遂げた。この後、全仏オープン4大大会にデビューし、予選3試合を勝ち抜いた後、2回戦で第2シードのリンゼイ・ダベンポートアメリカ)に初挑戦した。
エナンが最初に注目を集めたのは、2000年全米オープンの4回戦進出であった。この時、彼女は3回戦で人気選手のアンナ・クルニコワロシア)を 6-4, 7-6 で倒した後、次の4回戦でリンゼイ・ダベンポートに 0-6, 4-6 で敗れた。2001年1月、年頭のオーストラリアゴールドコースト大会の決勝でシルビア・ファリナ・エリアイタリア)を破り、ツアー2勝目を獲得する。
2001年全仏オープンにおいて、エナンはシングルス・ダブルスの2部門で準決勝に進出した。シングルス準決勝では1歳年下のキム・クライシュテルスとの「ベルギー対決」に敗れ、ダブルスではエレナ・タタルコワウクライナ)とパートナーを組んだ。続く2001年ウィンブルドンでは第8シードから決勝に進出し、前年度優勝者のビーナス・ウィリアムズアメリカ)に 1-6, 6-3, 0-6 で敗れて、準優勝になった。〔日本の新聞一般表記は、この年の全仏オープンまでは「ジャスティン・ヘニン」であったが、ウィンブルドン以後フランス語読みに合わせて「ジュスティーヌ・エナン」に統一された。〕 この一連の活躍で世界的な注目を浴び、世界トップ10選手に定着する。こうして、エナンとクライシュテルスのベルギー女子2強豪がテニス界を席巻し始めた。
2002年11月16日、ジュスティーヌ・エナンは、ピエール=イブ・アーデンと結婚。結婚後は、2つの姓を併用して「ジュスティーヌ・エナン=アーデン」(''Justine Henin-Hardenne'')と名乗るようになる。2003年全仏オープン2003年全米オープン2004年全豪オープンで、それぞれ初優勝を達成。この3大会ではすべてキム・クライシュテルスとの「ベルギー対決」の決勝を制し、ベルギーのテニス選手として最初の4大大会優勝者に輝いた。
2004年アテネ五輪で女子シングルスの金メダルを獲得した時は、決勝でアメリ・モレスモフランス)を 6-3, 6-3 で圧倒した。2004年のシーズンはウイルス性疾患などに悩まされたが、2005年全仏オープンで2年ぶり2度目の優勝を飾り、4大大会通算4勝目を挙げる。その決勝戦では地元フランスの30歳マリー・ピエルスを 6-1, 6-1 で圧倒した。
2006年全豪オープンでは、2年ぶり2度目の決勝戦でアメリ・モレスモとの対戦中に体調を崩し、1-6, 0-2 で途中棄権に追い込まれたため、2度目の全豪優勝はならなかった。続く2006年全仏オープンでは、2004年全米オープンの優勝者スベトラーナ・クズネツォワを 6-4, 6-4 で圧倒し、大会2連覇を達成する。2006年度の4大大会はすべて決勝に進んだが、全仏以外は準優勝に終わった。
2007年から、彼女は選手登録名を旧姓の「ジュスティーヌ・エナン」に戻した。2007年全豪オープンを「個人的な理由で」欠場し、全豪開催期間中の1月23日に公式サイトで夫のピエール=イブ・アーデンと離婚したことを明らかにした。この年、エナンは全仏オープンで大会3連覇を達成した。全仏オープンの女子シングルス3連覇は、1990年から1992年にかけて3連覇したモニカ・セレシュ以来の偉業となった。2007年全米オープンでは、2002年セリーナ・ウィリアムズ以来となる全試合ストレート勝ちの完全優勝を成し遂げた。
2008年5月14日、母国ベルギーで記者会見し、シーズン途中での現役引退を発表。テニス選手が世界ランキング1位のままで現役を退いたのは史上初めての出来事であった。同国のライバル、クライシュテルスも前年の2007年5月に現役引退を発表し、その1年後にエナンが世界1位のまま女子テニス界を去ったことにより、いったんはベルギーの女子2強豪の姿がテニスコートから消えた。(クライシュテルスは2009年8月から現役復帰し、2009年全米オープンで復活優勝した。)
2009年8月には、年末にベルギーとドバイで行われるエキシビジョン・マッチへの参加のためにトレーニングを再開したことが報道され、この報道から約1ヶ月後の9月22日、エナン側から正式に2010年の1月からツアーに復帰するとの発表が行われた。正式なツアー復帰に先立ち、2009年12月6日に母国ベルギーのシャールロアで行われたエキシビション・マッチの決勝でフラビア・ペンネッタイタリア)に 6-4, 6-4 のストレート勝ちを収める。
2010年年頭のオーストラリアゴールドコースト大会から現役復帰したエナンは、復帰初戦で決勝戦に進み、キム・クライシュテルスに 3-6, 6-4, 6-7(6-8) で敗れて準優勝になる。それから2010年全豪オープンで現役復帰後初の4大大会に出場し、4年ぶり3度目の決勝まで進出したが、第1シードのセリーナ・ウィリアムズに 4-6, 6-3, 2-6 で敗れて準優勝になった。3年ぶりの出場になった全仏オープンでは4回戦でサマンサ・ストーサーに6-2, 1-6, 4-6で敗れ、全仏の連勝が24で止まった。唯一優勝のないウィンブルドンでは4回戦でクライシュテルスに6-2, 2-6, 3-6で敗れ、この試合で転倒して肘を痛め2010年の残り試合を欠場した。
怪我から復帰した2011年全豪オープンでは、3回戦で過去16勝2敗と相性のよかったスベトラーナ・クズネツォワに 4-6, 6-7(8) で敗れた。2011年1月26日、エナンは2度目の現役引退を発表した。
エナンは2013年3月に第1子である長女を出産した。2015年3月に再婚している〔"Justine Henin in het geheim getrouwd op Corsica 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジュスティーヌ・エナン」の詳細全文を読む




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