翻訳と辞書
Words near each other
・ ジュリアス・シーザー (1970年の映画)
・ ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)
・ ジュリアス・シーザー (曖昧さ回避)
・ ジュリアス・シーリー
・ ジュリアス・スターリング・モートン
・ ジュリアス・ストーン
・ ジュリアス・スヴェンセン
・ ジュリアス・ソーパー
・ ジュリアス・チェイジェス
・ ジュリアス・チャロフ
ジュリアス・ベネディクト
・ ジュリアス・ホッジ
・ ジュリアス・マチュルスキ
・ ジュリアス・モートン
・ ジュリアス・ランドル
・ ジュリアス・ロング
・ ジュリアス・ローゼンウォルド
・ ジュリアス・ワトキンス
・ ジュリアナ
・ ジュリアナ (ファッションモデル)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジュリアス・ベネディクト : ミニ英和和英辞書
ジュリアス・ベネディクト
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジュリアス・ベネディクト : ウィキペディア日本語版
ジュリアス・ベネディクト

ジュリアス(ユリウス)・ベネディクトJulius Benedict 1804年11月27日 - 1885年6月5日)は、ドイツ出身のイギリス作曲家指揮者
== 生涯 ==
ヴュルテンベルク公国シュトゥットガルトユダヤ人銀行家の息子に生まれ、ヴァイマルフンメルに、ドレスデンウェーバーに作曲を学ぶ。ウェーバーの紹介で1823年10月5日ベートーヴェンと会っている。彼はこの年にウィーンケルントナートーア劇場()のカペルマイスターに任用されており、その2年後の1825年イタリアナポリにあるサン・カルロ劇場のカペルマイスターを務める。ナポリでは若き天才テオドール・デーラーピアノを教えた。
ナポリでは初めてのオペラ作品「''Giacinta ed Ernesto''」を1827年に初演し、他にも1830年には故郷のために作曲した「''I Portoghesi in :ja:ゴア州 とリンク -->" TITLE="Goa">Goa''」を上演したが、どちらも評判は芳しくなかった。彼は1834年パリに移ったが、マリア・マリブランの勧めに従い1835年にパリを後にしてロンドンへと向かう。そしてベネディクトはロンドンで生涯を終えることになる。彼は1836年、〔訳注:現在の劇場は1834年開場、シティ・オブ・ウェストミンスターウェスト・エンドの劇場。〕のオペラ事業の監督に就任し、以前にナポリでも上演していた短いオペラ「''Un anno ed un giorno''」を再演した。
1838年マイケル・ウィリアム・バルフェ〔訳注:1808年生まれ、アイルランドの作曲家。オペラ「」によって知られる。〕が非常に人気であった頃、ベネディクトはシアター・ロワイヤル〔訳注:1663年まで歴史を遡ることのできる、ロンドン、コヴェント・ガーデンの劇場。3度再建されている。ドゥルーリー・レーン(Drury Lane)として知られる。(Theatre Royal)〕の指揮者となった。そこでは自作のオペラ「''The Gipsy's Warning''」(1838年)、「ヴェニスの花嫁 ''The Bride of Venice''」(1844年)、「十字軍 ''The Crusaders''」(1846年)を初演している。1848年メンデルスゾーンオラトリオエリヤ」を〔訳注:1831年開場、ロンドンのコンサート・ホール1907年に取り壊され現在はホテル(英文記事)となっている。〕で上演した。これはジェニー・リンドが初めてオラトリオを歌った公演であった。また彼は1850年にはリンドのアメリカツアーの補佐として共に渡米している。
1852年に帰国するとすぐ、ベネディクトは〔訳注:1830年生まれ、イギリスのオペラ興行主。ロンドンやニューヨークで活動した。〕の運営の下、ハー・マジェスティーズ・シアター〔訳注:1705年開場、ロンドン、シティ・オブ・ウェストミンスターのウェスト・エンドの劇場。現在の建物は1897年の建設。〕と後にシアター・ロワイヤルで音楽監督となった。また、同年にはハーモニック・ユニオンの指揮者にも就いている。この頃の彼の知られていない作品には、1858年作曲の「コンサーティーナフォルテピアノのためのアンダンティーノ」がある〔Duncan Davison & Co., London, 1894〕。1860年にはウェーバーの「オベロン」のイタリア語公演用のレチタティーヴォを作っている(当時のイングランドではドイツ語のオペラをイタリア語で上演する伝統があった)。同年のノリッチ音楽祭では自作のカンタータ「水の精 ''Undine''」を上演しているが、この公演はクララ・ノヴェロの最後の公での舞台となった。
ベネディクトのオペラの中で最も知られているものは、ディオン・ボシコールト〔訳注:1820年頃生まれ、アイルランドの俳優劇作家メロドラマで名声を得た。(Dion Boucicault)〕の演劇「少女の柵 ''The Colleen Bawn''」に題材を採った「」であり、台本を〔訳注:1812年生まれ、イギリスの劇作家。〕が書いて1862年にロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで初演された。同劇場では、1864年に彼のオペレッタ「歌の花嫁 ''The Bride of Song''」も上演されている。
ベネディクトは1863年ウェールズ公だったエドワード7世アレクサンドラの婚礼の行進曲を作曲した。オラトリオ「聖セシリア ''St Cecilia''」が1868年にノリッチ音楽祭で、オラトリオ「聖ペテロ ''St Peter''」が1870年バーミンガム音楽祭で上演されており、カンタータ「''Graziella''」が1882年にバーミンガム音楽祭で、またオペラ形式では1883年8月に水晶宮で上演されている。水晶宮で1873年に彼の交響曲も演奏されている。1875年秋、ベネディクトはウィリアム・S・ギルバート〔訳注:1836年生まれ、イギリスの劇作家、台本作家。アーサー・サリヴァンとタッグを組み、喜劇で一時代を築いた。〕と書簡を交わし、喜劇を共同制作する提案を持ちかけたが、ギルバートはあまりに多くの仕事を抱えており構想は頓挫してしまった。
ベネディクトは1845年から1878年にかけて毎年ノリッチ音楽祭で指揮をしており、1875年から1880年にはロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団でもタクトを握っていた。ロンドンの月曜ポピュラーコンサートでは開始当初からの常連であり、わずかな例外を除いて演奏会では指揮者を務めた。
ベネディクトは一連の伝記「偉大な音楽家たち ''Great Musicians''」で、ウェーバーの興味深い生涯について寄稿している。彼は1871年にナイトに叙されており、1874年にフランツ・ヨーゼフ1世フリードリヒ1世の勲章に与っている。彼は1885年6月5日にロンドンでこの世を去った。彼が住み、また最期を過ごしたマーリバン〔訳注:ロンドン中心部、シティ・オブ・ウェストミンスター内の街区。(:ja:メリルボーン とリンク -->" TITLE="Marylebone">Marylebone )〕、マンチェスター・スクエア〔訳注:18世紀のガーデン・スクエア。オックスフォード・ストリートのすぐ北に位置する。(Manchester Square)〕の2には、彼を記念するブルー・プラークが掲げられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジュリアス・ベネディクト」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.