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ジュリアン・キャロル : ミニ英和和英辞書
ジュリアン・キャロル
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ジュリアン・キャロル : ウィキペディア日本語版
ジュリアン・キャロル

ジュリアン・モートン・キャロル(、1931年4月16日 - )は、アメリカ合衆国政治家弁護士である。民主党員として、アンダーソン郡フランクリン郡ウッドフォード郡、およびファイエット郡の一部を代表するケンタッキー州上院議員である。1974年から1979年まで第54代ケンタッキー州知事を務めた。1971年から副知事を務めており、このときの州知事ウェンデル・H・フォードアメリカ合衆国上院議員に就任するために知事を辞職したことに伴い、キャロルが昇格した。州内最西部のジャクソン買収地から初の州知事となり、副知事のセルマ・ストーバルは初の女性副知事となった。
キャロルはケンタッキー大学を卒業した後、3年間をアメリカ空軍弁護士として過ごし、その後マクラッケン郡に戻って、テネシー川流域開発公社が低料金電力を郡に供給することを認める運動を指導して評価を得た。1962年に初めてケンタッキー州下院議員に選ばれ、その後5期を務める中で、1968年から1970年には下院議長となった。1970年、元知事のバート・コームズと共に非公式の候補として副知事選挙に出馬した。コームズは民主党予備選挙でウェンデル・H・フォードに破れたが、キャロルは予備選挙で公認候補に選ばれ、本選挙でも当選した。1974年、フォードがアメリカ合衆国上院議員に選ばれたことで知事に昇格し、1975年の州知事選挙にも勝利して、4年任期の知事となった。
キャロルは知事として公共教育への予算を増加させ、1973年エネルギー危機への対処法として石炭利用を促進した。州司法府の大きな再編成を監督した。知事にあった間に多くの自然災害や人災が発生した。1978年の大吹雪、ビバリーヒルズ・サパークラブの火事などであり、州内での安全確保と厳密な法の執行に進ませた。キャロルが知事を辞めたとき、キャロルと前任知事のフォードが保険の見返り疑惑で捜査の雲の下にあったが、最終的に如何なる容疑も告発されることはなかった。2004年、ケンタッキー州上院議員に選出された。2008年と2012年にも再選され、2017年まで現職である。
== 初期の経歴 ==
ジュリアン・モートン・キャロルは1931年4月16日に、ケンタッキー州マクラッケン郡ウェストパデューカで生まれた〔"Kentucky Governor Julian Morton Carroll". National Governors Association〕。父はエルビー・B・"バスター"・キャロル、母はエバ(旧姓ヒーディ)であり、その11人の子供の3番目だった〔Conn, p. 47〕。父は小作農だったが、1937年オハイオ川洪水が起きた直後に一家でケンタッキー州ヒースに移転し、そこでトラクター部品を売り、1940年には自動車修理工場を始めた〔。10代の初め頃に年取った祖父母と共に住んで祖父の介護の助けをした〔Conn, p. 50〕。
1949年、高校の上級生になる者が1週間の夏のキャンプに参加する公的行事、ケンタッキー・ボーイズ・ステイトにヒース高校を代表する者に選ばれた〔Conn, p. 59〕。このキャンプの参加者は、実際にある州政府に基づいて、ミニチュアの州政府を作った〔。キャロルはそのミニチュア政府の知事に選出された〔Conn, p. 62〕。翌年、ヒース高校の卒業生総代および学生会長として卒業した〔"Julian Morton Carroll". Hall of Distinguished Alumni〕。
1950年末に近く、キャロルはシャーラン・ハーティングとのデートを始めた〔Conn, p. 66〕。1951年半ば、それぞれの進学で道が分かれた。ハーティングは家の財政状態が良く、ケンタッキー大学に進み、キャロルは近くにあるパデューカ・ジュニア・カレッジに入学した〔。その最初の1年が経った後、キャロルとハーティングは結婚することに決めた〔Conn, p. 67〕。結婚式は1951年7月22日に行われ、この夫妻にはケネス、パトリス、ブラドリー、エリンの4人の子供が生まれた〔Powell, p. 112〕。エリンが生まれたのは1975年6月27日であり、州知事として知事公舎に住んでいるときであり、ケンタッキー州知事が在任中に生まれた初の子供となった〔。
キャロルは1952年にパデューカ・ジュニア・カレッジで准学士号を取得した〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 165〕。その年夏、家族でレキシントンに移転し、キャロルはケンタッキー大学に入学した〔Conn, p. 78〕。ファイエット郡農業安定化保存局で働きながら学資を稼いだ〔。1954年、政治学で学士号を取得し、1956年には法学士号を取得した〔。
キャロルは学生である間にアメリカ空軍予備役士官訓練本部を通じて軍務訓練を受けた〔Conn, p. 83〕。卒業のときまでに、大学生としては最高の階級である士官候補生隊長に昇進していた〔。卒業後は空軍に入隊し、テキサス州フォートワースのカーズウェル空軍基地に駐屯した〔Sprague, p. 217〕。キャロルは空軍弁護士を3年間務めた後に、パデューカに戻ってリード・セント・リード・アンド・ウォルトン法律会社に入った〔〔。青年会議所の会員になり、1962年にはオプティミスト・クラブのパデューカ支部長を務めるなど、公的な分野で活動した〔。カンバーランド長老派教会で度々平信徒の講演者となり、1966年から1967年にはケンタッキー教会会議の議長を務めた〔。
1960年1月、地元事業家の集団がキャロルに接触し、テネシー川流域開発公社(TVA)が電力をマクラッケン郡に供給することを認めさせる運動について相談した。TVAはかなりの低料金で電力を提供できたが、地域の電力供給者であるケンタッキー・ユーティリティとの契約を止めるには先ず住民投票に掛ける必要があった。キャロルはこの運動を先導することに合意し、その9か月後の住民投票では3対1という圧倒的多数で、電力供給者の変更が承認された〔Conn, pp. 90–91〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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