翻訳と辞書
Words near each other
・ ジュリ・ウー・ニェン
・ ジュリ・ゴンサレス
・ ジュリー
・ ジュリー (曖昧さ回避)
・ ジュリー (柔道)
・ ジュリー&ジュリア
・ ジュリーがライバル
・ ジュリーニ
・ ジュリー・アシュトン
・ ジュリー・アダムス
ジュリー・アラール
・ ジュリー・アラール・デキュジス
・ ジュリー・アラール=デキュジス
・ ジュリー・アンドリュース
・ ジュリー・アンドリューズ
・ ジュリー・アンドルース
・ ジュリー・アンドルーズ
・ ジュリー・ウィンフレッド・バートランド
・ ジュリー・ウェイス
・ ジュリー・ウォルターズ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジュリー・アラール : ミニ英和和英辞書
ジュリー・アラール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジュリー・アラール ( リダイレクト:ジュリー・アラール=デキュジス ) : ウィキペディア日本語版
ジュリー・アラール=デキュジス[ちょうおん]

ジュリー・アラール=デキュジス(Julie Halard-Decugis, 1970年9月10日 - )は、フランスヴェルサイユ出身の元女子プロテニス選手。2000年全米オープン女子ダブルスで、日本の杉山愛とペアを組んで優勝した。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。WTAツアーでシングルス12勝、ダブルス15勝を挙げた。1995年に結婚し、以降は既婚選手として自分の姓「アラール」(Halard)と夫の姓「デキュジス」(Decugis)を併用して活動した。
7歳からテニスを始め、1986年に16歳でプロ入り。1989年からアルノー・デキュジス(Arnaud Decugis)のコーチを受け始め、1995年9月22日に結婚した。夫のアルノー・デキュジスは、黎明期の全仏選手権(現在の全仏オープン)で活躍したマックス・デキュジス1882年 - 1978年)の遠縁の子孫である。1991年プエルトリコの大会でシングルス初優勝。1992年ウィンブルドン2回戦でアランチャ・サンチェス・ビカリオを破り、4回戦まで進出。1993年全豪オープン1994年全仏オープン4大大会のベスト8に入る。
1996年7月、女子国別対抗戦・フェドカップ準決勝でフランススペインが対戦した時、アランチャ・サンチェス・ビカリオと対戦中に右手首の靱帯断裂を起こした。この故障のため、1997年のシーズンは全く試合に出場できなかった。そのブランク期間中、美術のレッスンを受け、趣味の絵画の腕を磨いたという。1998年にシングルスとダブルスで2勝ずつを挙げ、ツアー復帰を果たした。
早くから日本が大好きで、同じ1970年9月生まれの伊達公子と親友になった。1996年に伊達が現役を引退した後、後輩の杉山とダブルス・パートナーを組み、最も息の合うダブルス・ペアとして活動した。日本の試合では、1994年の「ニチレイ・レディース」でダブルス優勝があり、最後の年となった2000年に「ジャパン・オープン」で単複優勝を飾っている。
現役最後のシーズンとなった2000年に、WTAツアーでシングルス2勝、ダブルス10勝を挙げた。そのうち6勝は杉山愛とのコンビによるもので、その中には全米オープン女子ダブルスも含まれる。2000年9月10日、アラール=デキュジスと杉山のペアは全米オープンの女子ダブルス決勝でカーラ・ブラックジンバブエ)とエレーナ・リホフツェワロシア)組を 6-0, 1-6, 6-1 で破って優勝した。日本人選手を含むペアが4大大会の女子ダブルス部門で優勝したのは、1975年ウィンブルドンで優勝した沢松和子アン清村組以来25年ぶりであった。この日はアラール=デキュジスの30歳の誕生日でもあった。
この後、日本の「トヨタ・プリンセス・カップ」(ニチレイ・レディースは1997年からこの名称に変更)と「ジャパン・オープン」でもダブルス優勝。ダブルス世界ランキング1位の位置で、現役を引退した。
== 外部リンク ==

*
*
*




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジュリー・アラール=デキュジス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.