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ジュール・ラシュリエ(Jules Lachelier、1832年5月27日 - 1918年1月26日)は、19世紀後半のフランスの代表的な哲学者、教育家である。寡作だったがその著作はその後のフランス哲学に大きな影響を与えた。「ラシュリエがフランス哲学を目覚めさせた」とベルクソンは言い、フランス現代哲学はラシュリエをもって幕を開けたとも評される。 ベルクソン『時間と自由』の献辞はラシュリエに捧げられている〔Hatena Keyword 〕。哲学史上は「フランス・スピリチュアリスム」「フランス反省哲学」などの思潮の端緒に位置するとされることが多い。 == 生涯 == ラシュリエは1832年、フランスのフォンテーヌブローで退役海軍将校の父の一人息子として生まれた。長じてパリのリセ・ルイ=ル=グランへ進み、高等師範学校に合格して哲学の習得に励んだ。順調に道を歩んでいたが、1851年にナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)がクーデターを起こし翌年第二帝政が始まると、危険思想が含まれているとして哲学の教授資格試験(アグレガシオン)が廃止され、さらにリセでの哲学授業も全面的に禁止された。師範学校を卒業したラシュリエは、政治思想が含まれていないという理由で許されていた論理学・修辞学の試用教員としてリセに職を得た。〔『哲学の歴史8』|Ⅳ 19世紀フランス哲学の潮流(執筆:川口成雄)、2007年.p220〕 2年間の試用期間が終わると、禁止されている哲学の代わりに文学の教授資格試験を受けて合格、1856年からは奨学金を受け、高等師範学校の研究員として2年間、研究に没頭した。1858年にはリセ教師としてトゥールーズに赴任、4年間勤めた。1862年、パリのリセ・ボナパルトで論理学教師となったころから政治の潮目がかわり、といわれる時代に入る。1863年、ついに哲学のアグレガシオン(教授資格試験)が復活すると、当然ラシュリエは軽々と合格、明くる1964年、高等師範学校に助教授として招聘された。〔同前.pp.222-223〕 以降ラシュリエは、1864〜1875年の間、母校・高等師範学校で哲学、哲学史を講じた〔 コトバンク 〕。 この間の1871年に最初の著作となる学位論文『帰納の基礎』を発表、教育者としても後に哲学者となる学生たちに大きな影響を与えた。 :(例えば1872年から師範学校でラシュリエに学んだジュール・ラニョーは、後生の思想史家からラシュリエと並んで「フランス反省哲学」(史家によってはフランス・スピリチュアリスム〔スピリチュアリスム(Hatena Keyword) 2015年7月8日閲覧〕)の流れを作ったと評される〔ただし杉村靖彦はラニョーはフランス・スピリチュアリスムの枠には収まらないのではないかと、疑問を呈している。〕。ベルクソンに影響を与えたエミール・ブートルーもラシュリエに師事した一人である〔コトバンク 、【訳】エミール・ブートルー『自然法則の偶然性について』訳者あとがき 2015年7月8日閲覧〕。アランもまた師ラニョーの助言でラシュリエの『帰納の基礎』を熱心に勉強し、ラニョーの弟子ということでラシュリエからも可愛がられたという) 続く1875年からは転じて文部省視学官を務め〔、同時にアグレガシオン(教授資格試験)の審査員も務めた。1900年には視学官を引退しアグレガシオンの審査委員長に就任して1910年に退くまで続けた。 晩年には自分の多くの論文を燃やし、個人的な手紙を死後に公表することも禁じてラシュリエは、1918年1月26日、パリで没した。〔:fr:Jules Lachelier参照(横断翻訳使用)〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジュール・ラシュリエ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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