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ジョアン・ツズ・ロドリゲス (またはロドリーゲス、、、1561年(1562年)? – 1633年8月1日)は、ポルトガル人のイエズス会士でカトリック教会司祭。同名の司祭(ジョアン・ジラン・ロドリゲス João “Girão” Rodrigues, 1559年-1629年)と区別してツズ(通事の意)と呼ばれた。 ポルトガル北部のセルナンセーリェ (Sernancelhe) に生まれ、少年のうちに日本に来て1580年イエズス会に入会、長じて日本語に長け、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたるほどの地位に上り詰めたが、後に陰謀に遭って1610年、マカオに追放された。マカオではおなじく追放されてきた日本人信者の司牧にあたったほか、マカオ市政にも携わり、明の朝廷にも派遣された。日本帰還を絶えず願うも叶わず、マカオに歿した。日本語や日本文化への才覚を以て文法教科書『日本語文典』、『日本語小文典』を著したほか、『日本教会史』の著者としても知られる。 == 生涯 == === 誕生から司祭叙階まで === ロドリゲスは、1561年(あるいは1562年)に、ポルトガルのベイラ地方ヴィセウ県のセルナンセーリェに生まれる〔Cooper 20–23, 359–60. なお、豊島277–84参照。〕。家族や日本に来るまでのことについて確かなことは何一つ知られるところにないが、セルナンセーリェは山深い「田舎」であり、彼自身述べているようにポルトガルでは教育を受けていなかったと考えられている〔土井「解説」58。〕。ロドリゲスはポルトガルを1574年頃離れてインドに向かい、マカオを経て 1577年日本に到着した〔Cooper 20–24, 33–34.〕。 ロドリゲスが日本に到着してから1580年にイエズス会に入会するまでのことはくわしく知られないが、この間、京に行ったこと、耳川の戦い(天正6(1578)年)に居合わせたことはのちに自身で書きのこしている〔Cooper 37–40, 44–51.〕。 その後1580(天正8)年、ロドリゲスはイエズス会に入会し、新設の修練院(ノビシャド)に入った。それは、同年、同会巡察使のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが指示して臼杵に修練院、府内にコレジオなどの教育施設を建設させたものであった。初期の教育施設は書籍などの教材に事欠き、ヴァリニャーノ自身修練院で講義をなすなど教師の優秀さに頼ったものであった〔Cooper 54–56.〕。 ロドリゲスは1581年に府内のコレジオに移り、人文学の課程で主にラテン語を学び、すぐれた教養で知られた養方軒パウロにより日本語の指導も受けていた。また、ペドロ・ゴメスによってヨーロッパの自然科学の講義もなされていた。83年より哲学の課程が始まり、人材不足などの影響により、18か月で課程を終え、85年からスペイン人神学者ペドロ・デ・ラ・クルス (Pedro de la Cruz) に就いて神学の課程に入る。しかし、これも島津氏の大友氏侵攻によってコレジオと修練院は山口に退避し、翌年に豊臣秀吉が施薬院全宗の働きかけによりバテレン追放令を発するに至り中断させられる〔Cooper 58–61.〕。 1587年にふたたび神学を学びはじめたが、人文学の課程の講師になったため、ふたたび中断する。88年には安土(現・近江八幡市安土町)から有馬領の八良尾に移転された神学校で日本人学生にラテン語を教えることとなった。90年に神学を再開したが、91年は通訳としてヴァリニャーノに従っていたため、長崎に戻ってからの92年から95年にかけて諸聖人修院 (Casa de todos os Sanctos) で修了したと見られる〔Cooper 62–69, 105-106.〕。 ロドリゲスは、1595年10月、同時に司祭叙階を受けることになった叙階志願者とともにマカオに旅立った。日本にはまだ司教が到着していなかったからである〔府内司教区は、1588年1月、日本列島を管轄として設置された。初代府内司教のセバスティアン・モラーレス (Sebastian de Moraes) は、イエズス会士であったが、着任前に洋上で病死していた。府内のキリスト教徒共同体は、1587年に破壊されており、着任した司教はみな日本では長崎を拠点とし、日本司教を名乗った。以下でも日本司教と呼ぶ。Cooper 109.〕。1593年日本司教に任命されたドン・ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) は、1594年にマカオに到着していたが、スマトラ島に逮捕されているマカオ司教のレオナルド・デ・サ (Leonardo de Sá) に代り司教職を執り行っていた。そのマルティンスにより、1596年、5名の叙階志願者らとともに叙階され、日本司教一行は、8月に長崎に上陸した〔Cooper 107−112.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョアン・ロドリゲス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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