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ジョシュア・チェンバレン : ウィキペディア日本語版
ジョシュア・チェンバレン

ジョシュア・ローレンス・チェンバレン(Joshua Lawrence Chamberlain、1828年9月8日-1914年2月24日)は、アメリカ合衆国メイン州出身の大学教授であり、南北戦争の時は志願して北軍に加わった。軍事戦略についてはそれ以前に教育を受けたことが無かったが、大いに尊敬され勲章を受けるような北軍士官となり、准将の位(さらに名誉少将)にまで昇進した。ゲティスバーグの戦いでの勇敢さによって名誉勲章を受章した。バージニア州アポマトックス・コートハウスではロバート・E・リー北バージニア軍に対して降伏の儀式を行う時に、北軍を取り仕切る栄誉に浴した。戦後、チェンバレンは共和党として政界に入り、メイン州知事を4期務めた。出身校であるボウディン大学では教授と学長を務めた。
== 初期の経歴 ==
チェンバレンはメイン州ブルーワーで、ジュシュアとサラ・デュピーのチェンバレン夫妻の5人の子供のうち、長子として生まれた。大学入試に合格するために古代ギリシャ語を独学した後の1848年に、メイン州ブランズウィックボウディン大学に入学した。ボウディン時代、ボウディン大学教授の妻であるハリエット・ビーチャー・ストウなど、チェンバレンの人生に影響を与える多くの人々と出会った。チェンバレンは後にストウがその著名となる小説『アンクル・トムの小屋』の文章を読むのを聞きにしばしば通った。また連邦党寄りの学生集団であるピューシニアン協会に参加した。学術的名誉協会であるファイ・ベータ・カッパの会員となり、また学生友愛会のアルファ・デルタ・ファイの同士として1852年に大学を卒業した。
チェンバレンは1855年に地方の牧師の養女であるファニー・アダムズと結婚し、5人の子供が生まれたが、1人は未熟児で死産となり、2人は幼時に死亡した。チェンバレンの父は初めファニー・アダムズとの結婚を認めなかったが、後には認めてその息子と互いに尊重し合った。チェンバレンはメイン州バンゴーのバンゴー神学校でさらに3年間学び、その後ボウディン大学に戻って、修辞学の教授として教育者の経歴を始めた。最終的には科学や数学を除いてカリキュラムにあるどの教科でも教えるようになった。英語以外に9カ国語に堪能であった。すなわちギリシャ語ラテン語スペイン語ドイツ語フランス語イタリア語アラビア語ヘブライ語およびシリア語だった。
チェンバレンの曾祖父達はアメリカ独立戦争の時に軍人だった。そのうちの1人フランクリン・チェンバレンはヨークタウンの戦いで軍曹だった。祖父の名前もジョシュア・チェンバレンだったが、米英戦争のときに地方の民兵隊で大佐であり、イギリス軍によるバンガーとブルーワーの破壊に繋がった屈辱のハンプデンの戦いにおけるその役割で軍法会議に掛けられたが、無罪となった。チェンバレンの父も1839年の失敗に終わったアルーストック戦争に従軍した。チェンバレン自身は軍事学を学んだことは無かったが、国の為に仕えたいという強い望みがあった。
南北戦争が始まったとき、チェンバレンは入隊したいと願ったが、ボウディン大学の管理者はチェンバレンが大学教授として非常に価値があると考えていた。チェンバレンは休暇を認められた(建前上ヨーロッパで2年間語学を学ぶとされた)が、直ぐに入隊した。このとき第20メイン志願歩兵連隊の大佐就任を提案されたが辞退した。チェンバレンの伝記作者ジョン・J・ピューレンに拠れば、「初めはやや低く、まずは仕事を学ぶ」ことを好んだという。8月8日にその連隊の中佐に指名され、アデルバート・エイムズ大佐の指揮下に付いた。第20連隊はポトマック軍第5軍団の一部となった。
チェンバレンの連隊はアンティータムの戦いに向かったが、戦闘には参加しなかった。その後のフレデリックスバーグの戦いに参戦し、流血の多かったメアリーズ高地の襲撃で比較的少数の損害に留まったが、他の連隊の負傷者が多い中、凍えるような戦場で惨めな夜を過ごさなければならなかった。チェンバレンはこの夜のことを日記に記録しており、部隊に飛んでくる弾丸の音を聞きながら、死者の体を隠蔽材と枕に使っていたと、かなりの長さで論じている。1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦い時には、部隊に天然痘が拡がったために、後方で守備隊任務に回らされた〔Desjardin, pp. 4-5.〕。チェンバレンは1863年6月に、エイムズの昇進に合わせて連隊の大佐に昇進した。チェンバレンの弟たちの1人、トマス・チェンバレンも第20メイン連隊の士官だったが、もう1人の弟ジョン・チェンバレンはアメリカ・キリスト教コミッションの一員としてゲティスバーグで連隊を訪れており、その後別のメイン志願兵連隊の連隊付き牧師に指名された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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