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サー・ジョシュア・ロウリー(Sir Joshua Rowley、1730年5月1日 - 1790年2月20日)は、イギリス海軍の提督。ウィリアム・ロウリー提督の長男として、サフォークのテンドリングホールの自宅で生まれたといわれる。海軍士官としての経歴の中で、多くの戦闘に参加して殊勲を立て、同時代の人々からかなりのな賞賛を受けた。現役時代は戦闘が相次いだものの、大きな戦いの指揮を任せられることがなく、命令するよりも命令を受ける方だったのは、彼にとって不幸なことだった。そのため彼の軍功は、同時代の提督、たとえばオーガスタス・ケッペル、エドワード・ホーク、リチャード・ハウやジョージ・ブリッジズ・ロドニーのものとされている。しかしロウリーは、イギリスを長きにわたり守ってきたイギリス海軍の中でも、強い信念を持つ指揮官の一人である。 ==海軍入隊とトゥーロンの戦い== ロウリーは海軍に入隊後、父の旗艦であるで任務に就き〔Ships of the Royal Navy, College, p.333〕、トゥーロンの戦いに参戦した。この戦闘は雌雄決せず、しかもトマス・マシューズ提督と部下の数人の艦長が海軍を追われたことで、かなりの物議をかもした〔Dictionary of National Biography, Volume 37, P. 45〕。その後ロウリーの父ウィリアムが、1748年まで地中海艦隊の最高指揮官を務め、ロウリーは父と共に地中海での任務に就き、1747年の7月2日に大尉に昇進した。1752年には、大尉として44門のフリゲート艦に乗艦し〔Ships of the Royal Navy, College, p.264〕、1753年の12月4日にはポストキャプテン(肩書だけでなく、職権のある海軍大佐)となって、6等艦24門艦のの指揮を執った〔Ships of the Royal Navy, College, p.302〕。1755年の3月には1等艦で40門フリゲート艦のに配属となった。このアンバスケードは、1746年のオーストリア継承戦争中に、フランスに拿捕されていた艦だった〔Ships of the Royal Navy, College, p.13〕。アンバスケードがビスケー湾に停泊している間、ロウリーはエドワード・ホークの指揮下に配属された。時期は短かったものの、300以上ものフランスの商船を拿捕した〔At 12 Mr Byng Was Shot, Pope, p.32-33〕。1756年までに、ホークはミノルカで不運の提督ジョン・ビングと交代し、ロウリーは50門艦に異動した〔The Ship of the Line - Volume 1: The development of the battle fleet 1650-1850, Lavery, p.171〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョシュア・ロウリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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