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ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ(Joseph Jenkins Roberts、1809年3月15日 - 1876年2月24日)とは西アフリカにあるリベリア共和国の初代及び7代の大統領である。 == 生涯 == ロバーツは1809年3月15日、アメリカはバージニア州のノーフォークで生まれた。彼の父親はウェールズ起源の農園主であると言われている。彼の母アメリアはムラートで、農園主の妾だった。アメリアは、彼女の子供たちの全てに彼らの実の父親を示唆する「Jenkins」というミドルネームを与えている。 農園主はアメリアがまだ若いうちに彼女と彼女の子供たちを解放した。解放されたアメリアはジェームズ・ロバーツという自由人の黒人と結婚した。彼は彼女の子供に彼の姓を与え、彼自身の子供のように育て上げた。またロバーツはジェームズ川でボート遊びビジネス用の船を所有しており、死ぬまでに当時のアフリカ系アメリカ人としてはかなりの資産を得ていた。 なお、ジョセフ・ロバーツと彼の兄弟は8分の7までヨーロッパ人の血を引いていると推定されている。リベリアの歴史家Abayomi Karngaは1926年に「彼は本当の黒人ではなかった。彼は8分の1だったため、白人男性として容易に通用したかもしれない。」と指摘している。 1829年、20歳の時に彼の母が住んでいるリベリアに移住し、すぐに繁栄した貿易業者となり、そしてまた政治にも従事していった。リベリアの連邦結成後の1838年に彼はリベリアの副知事になった。1814年に知事となった時、彼の弟は入植地リベリアの白人知事への商人で、また非公式な補佐官、アメリカ大統領のジェームズ・ブキャナンの従兄弟であるトーマス・ブキャナンがアメリカで自由になった解放奴隷達をアフリカへ帰す事を追求していたアメリカ植民地協会(ASC)のメンバーとなった。1842年ブキャナンの死でロバーツは入植地の最初の黒人知事に任命された。入植地であるリベリアの政治及び経済を安定させるためロバーツと他の入植者達は現地の部族との条約や外国からの認証を追求した。1847年に入植者達はロバーツを初代リベリア大統領として、リベリア共和国を宣言した。1849年彼はイギリスを訪問し、リベリアを主権国家としてイギリスからの承識と保証を得た。そして1852年には、ヨーロッパ旅行の間に他のヨーロッパ植民地主義列強からの承識も得た。1856年から彼はリベリアの大統領として、リベリアの新しい大学のため、そして延長された財政危機のために、再度役立ち、1872年から1876年までリベリア共和国の第7代大統領としても活躍した。1876年2月24日に彼はリベリアの首都であるモンロビアで死んだが、リベリア建国の父としてその歴史に名を刻んでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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