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ジョーゼフ・ウォーレン・スティルウェル(Josepf Warren Stilwell, 1883年3月19日 - 1946年10月12日)は、アメリカ陸軍の軍人。第二次世界大戦中は中国雲南、北ビルマ戦線でルイス・マウントバッテンの下、対日作戦の指揮を執り援蒋ルートの確保に当たった。大胆な戦略家かつ辛辣な性格であり、「ビネガー・ジョー」のニックネームで知られた。 ==軍歴== * 1883.3/19 フロリダ州パラクタに生まれる * 1904.6 陸軍士官学校卒、司令・参謀大学卒 * 1904.10 フィリピン * 1907 グアテマラ * 1908 メキシコ * 1910.10 結婚 * 1911.1 フィリピン * 1911.9 日本 * 1911.11 上海 * 1911.12~1912.1 フィリピン * 1913 ウェスト・ポイントの英語・歴史部教官 * 1914 ウェスト・ポイントのスペイン語・近代語部教官。マドリッド派遣 * 1917.8 バージニア州キャンプ・リーの第八十師団付旅団副官 * 1917.12 フランスのヨーロッパ派遣アメリカ軍(AEF)参謀将校として諜報活動 * 1919.8 の中国派遣語学将校に任命され、カリフォルニア大学バークレー校で中国語講習を一年間受講 * 1920 山西省で道路建設の技師長を務める。 * 1921~1922 陝西省で道路建設の技師長を務める。馮玉祥との知古を得る * 1922.9 日本軍のシベリア出兵の諜報活動(満州の奉天・ハルビン〔バーバラ・タックマン(Barbara W. Tuchman), 失敗したアメリカの中国政策("Stilwell and the American Experience in China, 1911-45"), (1970), p.107〕・ウラジオストク) * 1923~1924 ジョージア州歩兵専科教育専門課程。基地司令官ウェルズ将軍の上級参謀補を務める。 * 1925~1926 カンザス州フォート・レヴンワース指揮参謀学校 * 1926.8 天津歩兵第十五連隊大隊長。ジョージ・マーシャル中佐と知り合う。 * 1927.5 北伐に巻込まれ徐州から汽車で浦口まで往き、巡洋艦で脱出 * 1927.9 朝鮮・日本 * 1928.1 天津歩兵第十五連隊幕僚部参謀次長 * 1928.5 「歩哨」紙上で済南事件・「田中覚書」・軍閥問題に言及。直後に張作霖爆殺事件 * 1929.4 帰国 * 1929.7 ジョージア州歩兵学校戦術部長 * 1933.5~1935 サンディエゴ第九軍団管区予備役将校隊訓練 * 1935.1~1939 在中華民国大使館附陸軍武官、蒋介石の参謀長 * 1942.2 中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官 * 1943.8 連合国東南アジア軍副最高司令官 * 1944.10 解任され、中国・ビルマ・インド戦域を離れる * 1945.1 陸軍地上軍司令官(ワシントンDC) * 1945.6 第10軍司令官(沖縄) * 1945.10 西部防衛軍司令官 * 1946.3 第6軍司令官(プレシディオ) * 1946.10/12 カリフォルニア州サンフランシスコのプレシディオにおいて胃癌のため死去。遺灰は太平洋に撒かれ、慰霊碑がウェスト・ポイント墓地に置かれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョセフ・スティルウェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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