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ジョセフ・ダドリー(Joseph Dudley, 1647年9月23日 - 1720年4月2日)は、イングランド(イギリス)領アメリカ植民地の行政官である。マサチューセッツ湾植民地ロクスベリー生まれで、父トマスはこの町の創設に貢献した初期入植者のひとりであった。ダドリーは、評判の悪かったニューイングランド自治領政府で指導的役割を果たしたほか、ニューヨーク植民地議会の議員を短期間務め、その間、ライスラーの反乱の首謀者であるジェイコブ・ライスラーの有罪判決の監督もした。1690年代には、ワイト島の副総督を8年間務め、そのうち1年はイングランドの下院議員も務めた。1702年にマサチューセッツ湾直轄植民地とニューハンプシャー植民地の総督となり、1715年までその職にあった。 ダドリーのマサチューセッツ統治は憎悪と緊張に満ちたものであり、政敵たちは、ダドリーが求めた定期的な俸給の支払いや、公私にわたる様々な要求に、ことごとく反対した。ダドリーの任期の大部分はアン女王戦争の時期であり、マサチューセッツもニューハンプシャーも、ヌーベルフランスと国境を接する最前線地帯で、大なり小なり、フランスとインディアン連合軍による襲撃を受けていた。ダドリーは、1707年に、アカディアの首都ポートロワイヤルの攻略を画策したが失敗に終わった。1710年には民兵を召集して再びポートロワイヤルを攻め、これは成功した。そして1711年には、ケベックに向かうイギリスの遠征隊を指揮したが、これは失敗した。 ダドリーの総督としての統治は、結果としてイギリス本国の植民地統治への反発を組織的なものに育てることとなったが、もっとも頻繁にその契機となったのは、直轄植民地の行政官の俸給をめぐる反発であった。植民地の立法府は常に、総督の特権に異議を唱え、論議を巻き起こした。この反感は、アメリカ独立戦争を経てイギリス支配が終焉するまで、歴代のマサチューセッツ総督にも向けられたものであったが、これに対し、ニューハンプシャーの統治は比較的穏やかなものであった。 ==行政官となるまで== ジョセフ・ダドリーは、1647年9月23日、マサチューセッツ植民地ロクスベリーに生まれた〔Moore, p.390〕。母はキャサリン・デイトン・ハックバーン・ダドリー、父は、マサチューセッツ植民地の創設者で、行政官の一人であったトマス・ダドリーである〔Moore, pp.294–296〕。ジョセフが生まれた時、父トーマスは既に70歳と老いており、彼は母親と、父が1653年に死去した後に母親が再婚したジョン・アリン牧師に育てられた〔。 ダドリーは、1665年にハーバード・カレッジを卒業し、1672年に自由市民(フリーマン)として認められた。1673年にマサチューセッツ植民地議会のロクスベリー代表となり、1676年には、植民地顧問会議員に選出された〔。1675年にフィリップ王戦争が起こり、ダドリーは、インディアン相手の植民地部隊に弁務官として同行した。に参戦し、ナラガンセット族に決定的勝利を得た〔Moore, p.391〕。何年かをニューイングランド連合の弁務官として過ごし、当局を代表して隣接するインディアン集落に外交の任務で派遣された。また、マサチューセッツと、隣のプリマス植民地の境界線について交渉する委員会の委員でもあった〔Kimball, p.3〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョセフ・ダドリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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