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ジョセフ・デシェイ(、1768年12月9日 - 1842年10月11日)は、ケンタッキー州選出アメリカ合衆国下院議員および第9代ケンタッキー州知事を務めたアメリカ合衆国の政治家である。ナント勅令廃止後に、ユグノーだったデシェイの祖先はフランスからアメリカ合衆国ペンシルベニア州に逃亡し、そこでデシェイが生まれた。デシェイの家族は現在のテネシー州ギャラティン近くに入植し、そこではインディアンとの多くの抗争に巻き込まれることになった。これらの抗争でデシェイの兄弟2人が殺されたことが、北西インディアン戦争のときに"マッド"アンソニー・ウェインのインディアンに対する作戦に志願する動機となった。この時までにケンタッキー州メイソン郡に移転していたデシェイは、軍隊で活動した記録を生かして、ケンタッキー州議会で数期議員を務めることになった。 1807年、6期務めたアメリカ合衆国議会下院議員の最初の任期に選出された。民主共和党の中ではタカ派と認められ、米英戦争を支持した。1813年、軍隊任務を志願し、テムズの戦いでは1個師団を指揮した。戦後議会に戻ると、不人気だった年金法に反対したことで、ケンタッキー州選出の唯一の議員となった。次の選挙で他の現職議員がほとんど全て落選したのに対し、この法に反対したデシェイが再選されることになった。1818年には再選を求めず、1820年に州知事選挙に出馬したが、ジョン・アデアのために敗れた。1824年までに、1819年恐慌がケンタッキー州の経済を破滅させており、デシェイは再度州知事選に出馬して、州内の大型債務者階級の救済をほとんど唯一の公約にして選挙運動を行った。結果は大差で当選し、債務者救済の支持者が両院を支配した。ケンタッキー州控訴裁判所が、デシェイと州議会の大半が推進した債務者救済法を覆した後で、議会は裁判所を廃し、代わりの裁判所を創って、デシェイが支持者を判事に指名した。旧裁判所はこの異動の合法性認定を拒否し、旧裁判所対新裁判所論争と呼ばれた期間に、州内に最終審が2つ存在することになった。 デシェイは州知事に当選したときに人気があったが、その任期中に起きた2つの論争で評判に傷が付いた。1つはトランシルベニア大学学長からホレス・ホリーを更迭したときのデシェイの役割についてだった。この大学の評議員会の宗教的保守派が、ホリーはリベラルに過ぎると反対したのに対し、デシェイのホリーに対する反対は、デシェイの政敵ヘンリー・クレイとホリーが友人だったことに基づいていた。1825年末の議会に対する演説でデシェイがホリーを厳しく批判した後、ホリーは辞任した。デシェイの息子アイザックが殺人罪に問われたときに、デシェイの評判に対する新たな打撃となった。デシェイの知事としての影響力もあって、2回の有罪判決が覆された。3回目の裁判を待っている間にアイザックが自殺未遂を犯した後、デシェイは彼に恩赦を出した。これら論争に加えて、経済が好転し、デシェイの政敵側が1825年と1826年の州議会選挙で躍進することになった。議会はいわゆる「デシェイ裁判所」を廃止し、デシェイの拒否権も覆して、裁判所論争を終わらせた。デシェイは最後の抵抗で、州知事公邸の明け渡しを拒否すると脅したが、最後は黙諾し、後継者である国民共和党のトマス・メトカーフに知事職を渡した。その任期が切れるとき、公的生活からも引退し、1842年10月11日にケンタッキー州ジョージタウンの息子の家で死んだ。 == 生い立ちと初期の経歴 == ジョセフ・デシェイは1768年12月9日に、ペンシルベニア州モンロー郡で生まれた。父はロバート・デシェイ、母はエレノア・(ウィーラー)・デシェイだった〔Harrison, p. 264〕。フランスのユグノーの子孫であり、先祖達はユグノーを宗教的迫害から保護していたナント勅令廃止後に、フランスからペンシルベニア州に逃亡してきた〔Cisco, p. 170〕。デシェイは州内田園部の学校で限られた教育を受けた〔"Kentucky Governor Joseph Desha". National Governors Association〕。1781年7月、デシェイ家はケンタッキー州ファイエット郡に移転し、翌年には現在のテネシー州ギャラティン市近く、当時カンバーランド地区と呼ばれた所に入植した〔Morton, p. 14〕。弟のロバート・デシェイは後にテネシー州選出アメリカ合衆国下院議員になった〔"Desha, Joseph". ''Biographical Directory of the United States Congress''〕。 フロンティアの開拓者の大半と同様に、デシェイ家もテネシーに移った後は度々インディアンとの紛争に遭遇し、デシェイは15歳から22歳の間に何度か対インディアン軍事遠征に志願した〔Allen, p. 90〕。そのような遠征の中で、デシェイと共に戦っていた兄弟2人が殺された〔Allen, p. 91〕。戦争の後、ウィリアム・ウィットリーと共にクラブオーチャードに住んだ〔Young, p. 119〕。1789年12月にはマーガレット・"ペギー"・ブレッドソーと結婚した〔。2人の結婚生活の中で13人の子供が生まれた〔Powell, p. 28〕。1792年、デシェイ家はケンタッキー州メイソン郡に移転し、そこで農夫として働いた〔。1794年、ウィリアム・ハリソン中尉の下で、北西インディアン戦争に参加した〔Tucker, p. 191〕。この年8月20日におきたフォールン・ティンバーズの戦いでは、"マッド"アンソニー・ウェイン将軍がインディアンを潰走させた時に加わっていた〔Young, p. 118〕。 1797年、民主共和党員としてケンタッキー州議会下院議員に当選し、政治の世界に入った〔。1798年に議会でケンタッキー州決議について議論したとき、全院委員会の議長をしていた〔Young, p. 120〕。1799年から1802年にも再度下院議員を務め、1802年から1807年は州上院議員となった〔。この議員と同時期に州民兵隊にも仕え続けていた。1798年1月23日には第29連隊の少佐に指名された〔Trowbridge, "Kentucky's Military Governors"〕。1799年3月23日に大佐に昇進し、1805年9月5日には准将となり、ケンタッキー州民兵隊第7旅団長となった〔。1806年12月24日には少将となったが、第7旅団に留まった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョセフ・デシェイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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