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ジョセフ・バイデン ( リダイレクト:ジョー・バイデン ) : ウィキペディア日本語版
ジョー・バイデン

ジョセフ・ロビネット “ジョー” バイデン・ジュニアJoseph Robinette "Joe" Biden, Jr., 1942年11月20日 - 、発音/'dʒoʊsəf rɒbɪ'nɛt 'baɪdən/)は、アメリカの政治家。アメリカ合衆国第47代副大統領(2009年 -)。デラウェア大学シラキューズ大学ロースクール卒業。連邦上院議員デラウェア州選出、1973年 - 2009年1月15日)。所属政党は民主党アイルランド系移民の子孫であり、ローマ・カトリック信徒。妻はジル・バイデン、長男はデラウェア州司法長官を2期務め2015年5月30日に死去したボー・バイデン〔CNN.co.jp〕。
民主党中道派を代表する〔毎日.jpの記事(原版は毎日新聞 2008年8月24日の東京版朝刊)より 〕大物政治家として知られ、上院議員としては当選回数7回・議員生活36年を誇ったベテランである。上院議員時代には、司法委員長(1987年 - 1995年)や外交委員長2001年 - 2003年2007年 - 2009年1月3日2009年1月3日 - 1月20日)を歴任するなど、まさしく上院民主党の“重鎮”として重きをなした。
2008年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党バラク・オバマ候補の副大統領候補に指名され、同年11月4日(現地時間)の投開票においてオバマ候補が当選したことに伴って第47代副大統領に決定、2009年1月20日(現地時間)に正式に就任した。この就任に伴い、アメリカ建国以来初のローマ・カトリック教徒の副大統領になると共に、初のデラウェア州出身の副大統領ともなった。
== 経歴 ==

=== 少年・学生時代 ===
1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンで、父ジョセフ・バイデン・シニアと母キャスリーンの間に、4人兄弟の長男として生まれた〔系図・系譜専門サイトWARGS.comのデータより(英語・2008年8月26日の検索データ) 〕〔サンフランシスコ・クロニクル紙の電子版記事より(英語・原版はAP通信の配信記事) 〕。父親のジョセフ・バイデン・シニアは、20代の頃はヨット狩猟自動車などの趣味に熱中するなど、非常に裕福な生活を送っていた。しかし、長男であるジョーが生まれた頃には、彼は数件の事業に失敗し、そのためにジョーの母方の祖父母にあたるフィネガン夫妻と数年にわたって同居しなければならなくなるなど、バイデン一家は苦しい生活を送っていた〔NYタイムズ電子版・2008年10月23日(現地時間)の記事より(英語) 〕。
その後、1950年代の経済低迷の中で、父ジョセフ・シニアも生計を立てていくだけの十分な仕事が得られなくなってしまったことから〔FOXNews.com 2008年8月27日(現地時間)の記事より(英語・原版はAP通信の配信記事) 〕、10歳の頃にデラウェア州クレイモントに引っ越し、その後さらに父親が勤めていた冷暖房ボイラー清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡ウィルミントンへ引っ越し〔、以後高校卒業までこの地で過ごす。ウィルミントンは、後にバイデンが弁護士として初めて開業した地であり、現在に至るまで自宅を構えている地でもある。ちなみにこの前後、フルートを愛好していたことから、"fleet flutin joe"というあだ名が付いていたという。その後ジョセフ・シニアは中古車セールスマンの職を得て、バイデン一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることになる〔〔〔アルマナック・オブ・アメリカン・ポリティクス(Almanac of American Politics, 2008年出版)の364ページ(英語版Wikipediaの脚注をそのまま引用)〕。
バイデンはクレイモントにあるカトリック系の私立学校、アーキメア・アカデミーへ入学し、1961年の卒業までこの学校で過ごした。在学中はフットボールと野球に熱中し、特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバックランニングバックの一種。)やワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた一翼を担った〔〔ザ・ニュースジャーナル紙(ウィルミントンの地元紙)に掲載されたマーティン・フランク記者の記事 "Biden was the stuttering kid who wanted the ball"(2008年9月28日掲載)より(Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)〕。また、政治活動についても、ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、積極的に取り組んだ。学業に関しては平凡で目立たない生徒であったものの〔、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒であったという〔ポール・テイラー著:“See How They Run: Electing the President in an Age of Mediaocracy”(英語・1990年アルフレッド A. クノップ社より刊行)、99ページより(Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)〕。
1961年にアーキメア・アカデミーを卒業した後、ニューアークにあるデラウェア大学に進学し、歴史学政治学を専攻した。当初はアーキメア・アカデミー時代と同様にフットボールに熱中、デラウェア大のチームであるデラウェア・ファイティンブルー・ヘンズに所属し、最初は新入生チームにおいてハーフバックとしてプレーしていた〔。しかし大学3年の時に、デラウェア州外に住む恋人と過ごす時間を確保するために、大学代表チームでディフェンシブバックとしてプレーする計画を諦めざるを得なくなった〔〔バイデンの自伝“Promises to Keep ”のペーパーバック版、27ページより(Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)〕。このように、スポーツや友人・恋人との交際に熱中していたためか〔、学業の成績はあまり優れず、専攻していた歴史学と政治学において学士号を取得し〔、1965年に卒業したものの、688人中506番目というあまり良くない成績で卒業することになった。しかし友人たちは、むしろバイデンの詰め込み勉強の才能に驚かされたという〔Current Biography Yearbook(1987年版)の43ページより(英語・Wikipedia英語版の脚注をそのまま引用)〕。
その後、シラキューズ大学ロースクールに進学。在学中は、1年目に法律評論誌の記事(全15ページ)から5ページにわたって論文を盗用したとして、学校から処分を受けたことがある。この事件についてバイデンは、「引用についての正確なルールを知らなかったことによる不注意で起こしてしまったものだ」として、悪意があったことを否定している。1968年法務博士号を取得〔アメリカ連邦議会の経歴紹介ページより 〕、卒業した後、翌1969年にはデラウェア州弁護士会へ加入し〔、ウィルミントンで弁護士として開業した。
ロースクール在学中の1966年、彼は最初の妻であるネイリア・ハンターと出会い、結婚する。ネイリアとの間には2男1女(ジョセフ3世(愛称:ボー)、ロバート、ナオミ)をもうけた。
ベトナム戦争の最中、バイデンは大学在学中の1963年からロースクール在学中の1968年までの間、少年時代の喘息の病歴を理由に5回の徴兵猶予を受けていた。このためベトナム戦争には従軍していなかった。
幼少期から吃音に苦しみ、その克服に20代前半まで要した。鏡の前で詩の朗読を続けていた。また、近親者がアルコール中毒で苦しんでいたことから禁酒家となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joe Biden 」があります。




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