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ジョゼフ・ジャック・セゼール・ジョフル(Joseph Jacques Césaire Joffre、1852年1月12日 - 1931年1月3日)はフランスの陸軍軍人。第一次世界大戦初期にフランス陸軍総司令官を務めた。 == 経歴 == リヴサルト出身。カタルーニャ人のワイン樽職人の家に生まれる〔Dossier personnel de Joseph Jacques Césaire Joffre au château de Vincennes. Légion d'Honneur, no 1368/55. Acte de naissance : Ville de Rivesaltes, extrait des registres de l'état-civil.〕。1869年にエコール・ポリテクニークを132人中席次14で卒業。陸軍に少尉として任官。砲兵連隊に配属される。1870年普仏戦争に従軍し、パリ攻囲戦に参加。1871年、工兵連隊所属になる。1872年中尉を拝命。パリ城壁の再構築やモントリニョンの要塞建築に携わる。1876年大尉に昇格。1885年からは台湾で任務に就く。清仏戦争の最中トンキンに赴任。1888年少佐となり1892年にフランス領スーダンへ転属。現地での紛争解決の功績を認められ1894年中佐〔Aldrich 1996, pp45-6〕。1895年マダガスカルでジョゼフ・ガリエニ将軍の元、ディエゴ・スアレス要塞の担当となった。1901年准将〔それぞれ少将、中将と和訳するケースもある。 https://www.overthefront.com/reasources/military-ranks/french-ranks〕に任ぜられる。1906年、パリの第6歩兵師団長となり、少将〔に昇任。1907年エコール・ミリテール監督官。翌年にはアミアンの第2軍団の指揮を任された。1910年には戦争最高顧問となり、対ドイツ戦争の作戦策定に関わるようになる。そして、1911年、ガリエニ将軍の推薦を得てフランス陸軍最高司令官となった。 1911年、第二次モロッコ事件が起こると、イギリス軍の元帥はパリに赴き、ジョフルに対独連携と有事の際の英軍の大陸派遣を提案した。両国の参謀本部が初めて連携した瞬間だったとジョフルは回顧する〔Joffre 1932, p. 16.〕。しかしながら、両国ともドイツ軍と戦うほどの力は持ち合わせていなかった。 そこで、ジョフルは最高司令官として陸軍の刷新を図り、〔1904年~05年にかけて発覚した政治汚職〕によって敢えて分散されていた指揮系統の集約を始める。また1913年7月には、3年間の徴兵制を導入。 1914年4月15日、対ドイツ軍事計画「プラン17」を導入。参謀本部の大佐を中心として策定されたこの計画の目的は、普仏戦争で失ったアルザス=ロレーヌの奪還であった。またジョフル自身も兵の進路の策定に携わっている。しかし、ジョフルは軍を動かすだけの器を持ち合わせておらず、「参謀の使い方も知らない」と言われたほどであった〔 First World War – Willmott, H.P., Dorling Kindersley, 2003, Page 52〕。議会で急進勢力が勢いを増すと司令官の職を解任される。 第一次世界大戦が勃発すると復権し、フランスはこの計画の下ドイツと戦うこととなった。同年、レジオンドヌールグランクロワ受章。緒戦におけるドイツの攻撃を防ぐことに成功するが、その後ヴェルダンの戦いやソンム攻勢で大きな損害を受けると元帥の称号を得てニヴェルに最高司令官の座を譲った。1919年退役。アカデミー・フランセーズの会員となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョゼフ・ジョフル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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