|
ジョセフ・ヘンリー(Joseph Henry、1797年12月17日 - 1878年5月13日)はアメリカの物理学者。スミソニアン協会の初代会長として、米国の科学振興に尽くした。生前から高く評価されていた。イギリスのマイケル・ファラデーとほぼ同時期に電磁誘導(相互誘導)を発見したが、ファラデーの方が先に発表している。電磁石を研究する過程で自己誘導という電磁気の現象(コイルに逆起電力が生じること)を発見。電磁誘導(インダクタンス)のSI単位ヘンリーに、その名をとどめる。また継電器を発明し、サミュエル・モールスやチャールズ・ホイートストンが電信を発明する基礎を築いた。 == 生涯 == 1797年、スコットランド系の両親の間にニューヨーク州オールバニでうまれた。家庭は貧しく、幼くして父を亡くした。父の死後は祖母と共にニューヨーク州ギャルウェイに住み、ギャルウェイの小学校に通った。その学校は後に "Joseph Henry Elementary School" と改称している。小学校卒業後は雑貨店で働き、13歳のときに時計屋の見習いとして働き始めた。若いころは演劇が好きで、プロの俳優になることを夢見ていた。16歳の時、''Popular Lectures on Experimental Philosophy''という科学書によって、科学への興味に目覚める。1819年オールバニアカデミーに入学し、無料で授業を受けた。授業料は無料でも生きていくために稼ぐ必要があり、家庭教師などをしてしのいだ。医学を志したが、1824年にハドソン川とエリー湖を結ぶべく建設中の州道の測量の技師見習いに任命された。その後は土木工学または機械工学を仕事とするようになった。 ヘンリーはオールバニアカデミーの教授たちが科学を教えるのを助けるほど優れた才能を示したため、1826年、同アカデミーの校長が彼を数学と自然哲学の教授に任命した。教授となったヘンリーはいくつかの重要な研究を行った。ヘンリーは地磁気への興味から磁気一般についての実験を行うようになった。ウィリアム・スタージャンの電磁石を改良するため、1829年、絹によって絶縁した銅線を鉄芯に巻きつけることで、強力な電磁石をつくった。これは導線の周囲を絶縁してより密に巻線を作れるようにしたものである。絶縁体として用いた絹は、妻のスカートを裂いて作ったとされる。ヘンリーはその技法を使って1831年には巻数400回の電磁石をイェール大学のために製作した。その電磁石で、338kgの物体を持ち上げることに成功。更に同年、1トンの物体を持ち上げることまで成功した。彼はまた、1つの電池に2つの電極でつなぐ電磁石の場合、並列にいくつかの巻線を接続した方が強力になることを発見した。しかし、複数の電池を使う場合には1つの長い巻線の方がよいことも発見した。後者は電信の実現に一役買った。 1830年、マイケル・ファラデーより先に電磁誘導を発見したが、発表が遅れたため、発見の功はファラデーに譲ることとなった(1831年)。1831年には電磁気を動力源として動く世界初の機械を作った。電動機の元となったものである。ただし回転運動ではなく、棒の先の電磁石が前後に振動する形だった。これは棒が振れたときに2つの電池の一方と接触して電磁石の極性が逆転し、反対方向へ動く力が生じる仕組みだった。この実験からヘンリーは1832年に自己誘導を発見した。 ヘンリーは多くの発明をしたが、一切特許化はせず、これらの成果をもとに他の人間が製品化することを大いに援助した。1835年にヘンリーが発明した継電器(リレー)は電信機の発明(1837年)の基礎となった。このサミュエル・モールスによる発明に対し、ヘンリーは多くの支援を行った。 1842年、ライデン瓶の放電による電磁振動を発見。 1845年から47年にかけて、天文学者スティーブン・アレクサンダーと共に太陽黒点の観察を行い、サーモパイルを使って黒点が周囲より温度が低いことを明らかにした。この成果は天文学者アンジェロ・セッキがさらに発展させたが、ヘンリーの関与が正当に評価されたかについてはやや疑問がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョセフ・ヘンリー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joseph Henry 」があります。 スポンサード リンク
|