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ジョゼ・エルネスト・ド・スーザ : ミニ英和和英辞書
ジョゼ・エルネスト・ド・スーザ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョゼ・エルネスト・ド・スーザ ( リダイレクト:ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ ) : ウィキペディア日本語版
ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ[ちょうおん]

ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザJosé Ernesto de Sousa1921年4月18日 リスボン - 1988年10月6日 リスボン)は、ポルトガルシネクラブ運動の創始者であり、映画監督写真家著述家である。創造だけでなく、芸術の批評研究にその生涯をアクティヴに捧げた。
== 来歴・人物 ==
1921年4月18日、リスボンに生まれる。1940年代、リスボン理科大学で物理化学を学び、アフリカ美術展を組織した。『''Seara Nova''』、『''Vértice''』、『''Mundo Literário''』、『''Colóquio Artes''』といった新聞雑誌に執筆を始める。同時代のシュルレアリストたちと交流し、新現実主義の芸術や文学の批評家・理論家としての活動を開始する。
1946年、ポルトガル初のシネクラブ、「''Círculo de Cinema''」を設立。1948年、デ・ソウザとほかのクラブ幹部を逮捕するために、シネクラブの本部がポルトガルの秘密警察に襲撃される。政治文化的な理由による初の事件であった。
1949年から1952年の間パリに留学し、シネマテーク・フランセーズパリ大学ソルボンヌ、IDHECに通った。そこでシネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンのメンバーとなり、アンドレ・バザンフランソワ・トリュフォーと知り合う。マルリ=ル=ロワで、アラン・レネアニエス・ヴァルダジャン・ミシェルとともに活動をした。
監督作『''Dom Roberto''』(1962年)は第15回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。
若いころから、芸術と写真の研究に没頭していた。オープンで論争的で先駆的な精神をもち、芸術的なフィールドでたくさんのことを主張し、研究した。視覚芸術映画演劇ジャーナリズム放送批評随筆。映画監督として、「ノヴォ・シネマ」の創始者のひとりとされ、パウロ・ローシャ監督の『青い年』(1963年)とともにその運動を開始した。デ・ソウザがもっとも打ち込んだ仕事、表現の中心は映画ではなく写真であった。

1988年10月6日、リスボンで死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ」の詳細全文を読む




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