|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ(José Ernesto de Sousa、1921年4月18日 リスボン - 1988年10月6日 リスボン)は、ポルトガルのシネクラブ運動の創始者であり、映画監督、写真家、著述家である。創造だけでなく、芸術の批評研究にその生涯をアクティヴに捧げた。 == 来歴・人物 == 1921年4月18日、リスボンに生まれる。1940年代、リスボン理科大学で物理化学を学び、アフリカ美術展を組織した。『''Seara Nova''』、『''Vértice''』、『''Mundo Literário''』、『''Colóquio Artes''』といった新聞雑誌に執筆を始める。同時代のシュルレアリストたちと交流し、新現実主義の芸術や文学の批評家・理論家としての活動を開始する。 1946年、ポルトガル初のシネクラブ、「''Círculo de Cinema''」を設立。1948年、デ・ソウザとほかのクラブ幹部を逮捕するために、シネクラブの本部がポルトガルの秘密警察に襲撃される。政治文化的な理由による初の事件であった。 1949年から1952年の間パリに留学し、シネマテーク・フランセーズとパリ大学ソルボンヌ、IDHECに通った。そこでシネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンのメンバーとなり、アンドレ・バザン、フランソワ・トリュフォーと知り合う。マルリ=ル=ロワで、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャン・ミシェルとともに活動をした。 監督作『''Dom Roberto''』(1962年)は第15回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。 若いころから、芸術と写真の研究に没頭していた。オープンで論争的で先駆的な精神をもち、芸術的なフィールドでたくさんのことを主張し、研究した。視覚芸術、映画、演劇、ジャーナリズム、放送、批評、随筆。映画監督として、「ノヴォ・シネマ」の創始者のひとりとされ、パウロ・ローシャ監督の『青い年』(1963年)とともにその運動を開始した。デ・ソウザがもっとも打ち込んだ仕事、表現の中心は映画ではなく写真であった。 1988年10月6日、リスボンで死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|