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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジョニー・バウワー(Johnny Bower、1924年11月8日 - 、)はカナダサスカチュワン州プリンス・アルバート生まれのプロ・アイスホッケー選手である。ポジションはゴーリーを務めた。愛称はThe China Wall。別名を John Kizkan とする記録もある。1976年にホッケーの殿堂入りを果した。 == 来歴 == バウワーは、4年間陸軍の兵士として第二次世界大戦を戦った後除隊し、1年間は故郷のサスカチュワンのジュニアチームに加入した。1945年から1950年代にかけての11年間、主にAHLのクリーブランド・バロンズで活躍し、同リーグのスターゴーリーとしての地位を確立し、数々の賞を受けるとともにチームを3度のカルダー・カップ優勝に導いた。 1953-1954シーズンになって29歳とプロ・ホッケー選手としては異例に遅くNHLのニューヨーク・レンジャースに引き抜かれた。その背景に、当時のレンジャーズはゴーリーのチャック・レイナー (Chuck Rayner) が現役を引退したばかりだったという事情があった。バウワーはレンジャーズにおいて、全試合フルタイムに出場し、5試合の完封を含み平均失点2.60と良好といえる成績を残した。ところが翌シーズンにレンジャースは新人のガンプ・ウォーズリーをゴーリーに起用し、バウワーは再びマイナーリーグ落ちとなってしまう。 しかしバウワーはめげることなく、プロヴィデンス(ロードアイランド州)、WHLのバンクーバーやクリーブランドで4年間のマイナー生活(数試合はNHLのレンジャースから出場の声がかかることはあったが)を耐え抜き、1958年のインターリーグ・ドラフトでメジャーのトロント・メープルリーフスに指名された。バウワーは34歳になろうとしていた。このとき彼を見出したのは、時のスプリングフィールド・インディアンズのコーチで後にメープルリーフスのコーチ兼マネージャーとなる Punch Imlach であったとされる。バウワーはメープルリーフスで11年間に渡ってプレーし、ここで現役生活を終えた。 NHL選手生活での頂点は、1960年代初頭のメープルリーフスがスタンレー・カップ3連覇を達成した期間であった。バウワーの現役生活は、名伯楽を欠いたために不遇な時代が長かったが、それにもかかわらずNHLでもトップクラスのゴーリーと評価する声が高い。バウワーがディフェンステクニックとして良く用いたのは、ポークチェック(Poke-check、敵の保持しているパックをスティックで突きだし、味方選手がパックをクリアしやすいようにする技術)であったといわれる。 その鼻っ柱の強い性格(例えば、バウワーは「プレッシャーがかかればかかるほど、いいプレーができる」といった旨のコメントを残した。)とやや泥臭いプレイスタイルで知られ、1965年のスタンレー・カップではデトロイト・レッドウィングスゴーリーで、これも殿堂入り選手となるテリー・ソーチャックと好勝負を演じ、1967年には同僚となったソーチャックと交替でメープルリーフスのゴールを守った。バウワーの現役最後のフル登録シーズンは1968-1969シーズンで、1969年の秋の試合が彼の引退試合となった。45歳であった。現役生活を通じて一度もマスクを着用しなかったが、彼自身「ゴーリーとなることを決心した時から、歯を失い、顔面が切り刻まれることは覚悟している」といった旨の発言を残している。 受賞歴のなかには、AHLの最優秀選手賞を3年連続で獲得したとされる記録があるが、他に北米のアイスホッケーリーグにおいて3年連続のMVPに輝いたのは、ボビー・オア、ウェイン・グレツキー、Paul Polillo がいる。AHLにおいては、シャットアウト試合数の記録を保有している(2005年現在)。 エピソードとして、バウワーの真の誕生日については様々な憶測があるが、その原因としては、自身が現役生活を長く続けたいがために、何歳であるかを隠そうとしていたという説や、陸軍に入隊するために年齢をサバ読んだとする説がある。ホッケー史家の多くの間では、実は1924年生まれであると信じられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョニー・バウワー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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