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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジョニー・ベンチ(John Lee "Johnny" Bench, 1947年12月7日 - )は、元メジャーリーガー(捕手)。ニックネームは「Little General」。 1970年代にビッグレッドマシンと言われたシンシナティ・レッズの黄金時代を支えた。MLB史上最強の捕手とも称され、史上唯一、捕手で本塁打王タイトルを獲得している。 == 略歴 == アメリカ合衆国のオクラホマ州オクラホマシティに3人兄弟の末っ子として誕生。父親はアメリカ先住民であるチョクトー族の血をひいている。の第1回ドラフト会議でレッズに指名され、入団。 約2年のマイナーでのプレイを経て、8月28日にメジャーデビューを果たした。その年はシーズン終盤26試合に出場し、打率.163に終わったが、のスプリングキャンプの際に出会ったテッド・ウィリアムズがベンチのバッティングに非凡さを感じ、自らのサインを渡す際に「将来の野球殿堂入りが確実なジョニー・ベンチ君へ」と書き添えた逸話がある〔福島良一 『大リーグ雑学ノート』(ダイヤモンド社、1997年)ISBN 447896050X 〕。その1968年には初めてフルシーズンをメジャーで過ごし、154試合に出場して打率.275、15本塁打、82打点の活躍でナ・リーグ新人王に選ばれた。 にはいずれも自己最多の45本塁打、148打点を記録し、本塁打王・打点王の二冠に輝き、最優秀選手(MVP)を受賞。にも40本塁打・125打点で再び二冠に輝き、MVPを受賞した。は129打点で3度目の打点王を獲得。 1972年のワールドシリーズ第3戦の8回表、ランナーを二人置いてベンチに打席が回った。フルカウントになったところで、監督のディック・ウィリアムズとバッテリーが集まって話し合った。プレーが再開されると捕手のジーン・テナスが立ち上がって一塁を指差した。ベンチは敬遠されると思ってボールを待った。投手のローリー・フィンガーズが振りかぶると、テナスは突然座ってボールを待ち構えた。ベンチは騙され、見逃し三振に打ち取られてしまった。 レッズは名将スパーキー・アンダーソン監督の下、・に二年連続でワールドシリーズを制し、ベンチはピート・ローズ、ジョー・モーガンらとともにBig Red Machineと言われた1970年代最強チームの一つを牽引した。守備力にも優れ、ゴールドグラブ賞は1968年から10年連続で受賞。オールスターには通算14回出場した。他にも、1975年にはルー・ゲーリッグ賞、1976年にはワールドシリーズMVPとベーブ・ルース賞、にはハッチ賞を受賞。 秋にはレッズ単独チームの一員として日米野球で来日。1981年以後は一塁手、そして三塁手にコンバートし、現役最後の3シーズンで捕手を務めたのは13試合のみであった。 のシーズン途中に同年限りでの現役引退を発表。打撃三冠王経験者のカール・ヤストレムスキー(ボストン・レッドソックス)もシーズン後の引退を表明したため、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは二人の功績を称え、同年のオールスターゲーム出場枠を特別に1名ずつ増やして二人を出場させた。9月17日の本拠地リバーフロント・スタジアムの試合は「Johnny Bench Night」と銘打たれ、現役最後となる通算389号本塁打を放つ。 多くの選手がフリーエージェント等で高給を求めて移籍する中、17シーズンをレッズ一筋に過ごし、通算389本塁打、1,376打点を記録。打撃タイトルは延べ5回だが、捕手という負担の大きなポジションにあってその打力は特筆すべきものであった。通算389本塁打中、捕手としての本塁打は327本で当時のMLB記録たったが、後にカールトン・フィスク、更にマイク・ピアッツァに更新された。 引退と同時に背番号『5』はレッズの永久欠番に指定され、には資格初年度で96.42%という高い得票率で野球殿堂入りを果たし、21年前のウィリアムズの予言は現実のものとなった。には捕手としては最高得票でMLBオールセンチュリーチームに選出された。 息子は高校で主にアメフトで活躍したが、父の後を追ってメジャーのトライアウトに2度挑戦したことがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョニー・ベンチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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