|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件は、1985年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国のコソボ社会主義自治州にて、セルビア人の農家・ジョルジェ・マルティノヴィッチ(セルビア語:、1929年 - 2000年9月6日)が肛門へのガラス瓶の挿入による負傷の治療を受けたことに端を発し、ユーゴスラビアの政界を巻き込んだ騒動に発展した事件である。その後長年にわたって真相は明らかになっていないが、この事件はコソボに住むアルバニア人とセルビア人の対立に大きな影響をおよぼした。 == 事件 == 1985年5月1日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・セルビア社会主義共和国のコソボ社会主義自治州の町・グニラネ / ジランにて、セルビア人の農家であるジョルジェ・マルティノヴィッチが病院に来た。このときのマルティノヴィッチの肛門にはガラス瓶が挿入され、瓶は割れていた。マルティノヴィッチは、畑で作業していたところアルバニア語を話す2人組の男らによって攻撃されたと主張した。しかしその後ユーゴスラビア人民軍の大佐から事情聴取を受けた時には、マスターベーション目的で自ら瓶を挿入したことを認めたと伝えられている。公式の調査では、「検察官は書面にて結論をまとめ、それによると本件負傷者は自身の畑にて『自己満足』のための行為を行ったとみられ、木製の棒の上にビール瓶を乗せたものを地面に設置し、瓶の上に座り、楽しんだ」と報告された〔Julie A. Mertus, ''Kosovo: How Myths and Truths started a War'', pp. 100-10. University of California Press, 1999. ISBN 0520218655〕。これに続いてグニラネ / ジランの自治体首脳部からも声明が出され、その中でこの事件は「自らおこなった(性的)行為での偶発的な結果」であるとされた〔Sabrina P. Ramet, Angelo Georgakis. ''Thinking about Yugoslavia: Scholarly Debates about the Yugoslav Breakup and the Wars in Bosnia and Kosovo'', pp. 153, 201. Cambridge University Press, 2005. ISBN 1397805218〕。 マルティノヴィッチは更なる調査のためにベオグラードの軍医アカデミーに送られた。しかし、このときの医療チームは、問題の傷が自らつけられたものだとは説明できないとした。医療チームはベオグラードから2人、リュブリャナ、ザグレブ、スコピエからそれぞれ1人ずつの(それぞれ、ユーゴスラビアを構成する6つの共和国のうち4つの共和国の首都である)医師により構成されていた。チームは、負傷は「500ミリリットル瓶の強力で乱暴な突然差し込まれたか押し込まれたもので、瓶の太い側が末端まで直腸に入っており」、これはマルティノヴィッチ自身が行うことは物理的に不可能と考えられるとした。チームでは、瓶の挿入は「すくなくとも2人ないしそれ以上の人物が関与しなければなし得ない」とされた〔Jasna Dragović-Soso, ''Saviours of the Nation?: Serbia's Intellectual Opposition and the Revival of Nationalism'', pp. 132-135. C. Hurst & Co, 2002. ISBN 1850655774〕。 さらに、1箇月後にスロベニアの高名な内科医であるヤネス・ミルチンスキ〔http://www.ism-mf.si/Zgodovina/ 〕の下に設けられた委員会によるセカンド・オピニオンが実施された。ミルチンスキのチームは、マルティノヴィッチが木製の棒の上の瓶を動かし、その上で地面に座り込むようにして挿入していたが、マスターベーションの最中に滑って転び、体重によって生ずる圧力によって直腸内で瓶が破損したと結論づけた〔。ユーゴスラビアの秘密警察や軍の情報機関も、マルティノヴィッチの負傷は自ら行われた可能性が高いと結論づけたといわれている〔Louis Sell, ''Slobodan Milosevic and the Destruction of Yugoslavia'', pp. 78-79. Duke University Press, 2003. ISBN 082233223X〕。 マルティノヴィッチは後に自身の供述を撤回し、供述は3時間におよぶ尋問の中で強いられたものだとし、供述と引き換えに自分の子供たちの雇用を保障すると約束されたと述べた。マルティノヴィッチの息子は新聞社に対して、父は単にセルビア人であるが故に攻撃されたのだとして、「アルバニア人の民族統一主義者が報復目的にやったことだと友人たちは話している。…連中は、犠牲者がセルビア人なら誰でも良かったのだ。」と述べた〔。 最終的に、セルビア社会主義共和国の当局は立件を見送り、1989年にセルビアにおけるコソボの自治権が停止された後でさえこの事件の「加害者」を特定しようとする本格的な動きはなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|