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ジョルジュ・ド・スキュデリー : ミニ英和和英辞書
ジョルジュ・ド・スキュデリー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョルジュ・ド・スキュデリー : ウィキペディア日本語版
ジョルジュ・ド・スキュデリー[ちょうおん]

ジョルジュ・ド・スキュデリー1601年4月11日 - 1667年5月14日)は、17世紀フランス劇作家。現代ではサロン「土曜会」を開いたマドレーヌ・ド・スキュデリーの兄としてのみ知られるが、彼自身も詩や劇作で成功を収めていた人物である。序文を書いたり、筋書きを考えたりして、妹の小説を手伝った。''、1601年4月11日 - 1667年5月14日)は、17世紀フランス劇作家。現代ではサロン「土曜会」を開いたマドレーヌ・ド・スキュデリーの兄としてのみ知られるが、彼自身も詩や劇作で成功を収めていた人物である。序文を書いたり、筋書きを考えたりして、妹の小説を手伝った。
== 生涯 ==
1601年4月11日、ル・アーヴルに生まれた。8月22日に、同地のノートルダム聖堂にて洗礼を受けた記録が残っている。5人兄弟の第2子だったが、1607年に生まれたマドレーヌを除く3人は夭折した。父親はル・アーヴル港の要職を務めた海軍軍人であり、海賊でもあった。妹と同名の母マドレーヌは、16世紀に建立された城に住む名士の娘で、裕福な家の出身であった〔フランス十七世紀の劇作家たち 研究叢書52,中央大学人文科学研究所編,P.224,中央大学出版部,2011年〕。
スキュデリー家は常に貧しかった。父親はオランダ船への海賊行為が原因でオランダに捕らえられ、獄中で病を得て、釈放後すぐに死亡した。母もその後を追うように数か月後に他界し、両親を失って孤児となったが、1613年に妹ともに叔父に引き取られた。叔父はかつて宮廷に仕えており、裕福で深い教養を備えていたので、兄妹に十分な教育を与えた。妹はイタリア語スペイン語をはじめ、絵画、舞踊、リュート、料理、園芸などを学んだ。ジョルジュもまた同程度の教養を身に着け、とくに絵画について深く知識を蓄えた。1620年に父方の先祖ゆかりの地、南フランスのアプトへ赴いた。祖母の訴訟を片付ける手伝いをして、同居するためであった。ここで彼は初恋の女性カトリーヌと出会い、彼女の気を惹こうと詩作に励んだ。これが詩作に熱中するきっかけとなった〔Ibid.〕。
1620年、ジョルジュは軍隊に入った。どのような軍歴を重ねたのかはよくわからないが、軍隊での最大の功績は三十年戦争中、ピエモンテの戦いに従軍し、活躍したことである。この活躍は後日元帥に讃えられたほどのものであった。ここまでの人生、つまり幼少期から軍隊経験までが捜索に取り入れられたといわれるが、それを裏付ける証言は少ない。ちょうど軍隊での大きな功績を打ち立てた1629年、突然軍隊から脱退した。昇進に必要な官職を買う財力がなかったためであるという。だが彼は、すぐにランブイエ侯爵夫人のサロンに迎えられるようになり、ここで多くの文人たちと、とくにヴォワチュールやポール・スカロンと知り合った〔Ibid. P.224-5〕。
1628年ころ、スキュデリーは最初の戯曲『リグダモンとリディアス、あるいは瓜二つ』を制作した。同作は当時大流行していたオノレ・デュルフェの『アストレ』に題を採ったもので、成功を収めた。ブルゴーニュ劇場での同作の上演をきっかけに、ジャン・ロトルーやデュ・リエらと知り合ったようである。デュ・リエの庇護者であったブラン伯爵の庇護をいつ獲得したのかはわからないが、文芸の道に生きることを決意し、パリのマレー地区に居住した。デビュー作が成功を収めた勢いに乗って、1631年に『罰を受けたペテン師、あるいは北の物語』を制作。スキュデリーは同作を宰相リシュリューの姪、コンパレ夫人に献呈したことで、宰相の庇護を獲得するきっかけを得た。ちょうどこのころパリでの生活が安定してきたので、妹のマドレーヌを同地に呼び寄せ、同居を始めたと考えられている〔Ibid. P.226-7〕。
1632年には『勇敢な武士』を制作。作者の言葉を信ずれば、前作同様成功したらしい。同作を出版した後に、スキュデリーが創作に貢献した12作品の詩が続けて出版されている。これはランブイエ侯爵夫人のサロンに出入りする詩人たちが、モントージエ侯爵の依頼を受けて書き始めた詩集「ジュリーの花飾り」に収録されているもので、スキュデリーの社交界での交友関係や、詩人としての自信が伺える〔Ibid. p.228〕。
『役者たちの芝居』は制作年月日などは不明だが、作中でアレクサンドル・アルディが故人として扱われていることから推察するに、1632年前後のことだと思われる。スキュデリーはこの作品を「変則的な劇詩」として扱った。この変則的な劇詩のあと、バロック的悲喜劇の路線に戻ったのが『オラント』である。この作品はジャン・メレの1625年の作品『クリゼイドとアリマン』と同じ内容を含んでおり、彼との交流があったのかもしれない。スキュデリー自身は、『オラント』を書いてすぐ後に、『偽りの息子』を書いたと述べている。この作品を最後に、喜劇は書かなくなった。同時期に『変装の王子』を制作したが、この作品の持つ繊細な自然描写、詩の美しさは見事で、王宮庭園を描いた場面は最も見事であるとの評価を獲得した。宮廷で長きに亘って称賛され、自他ともに大成功を収めたと認める作品であった〔Ibid. P.232〕。
1634年にジャン・メレの悲劇『ソフォニスプ』が上演され、成功を収めた。ランブイエ侯爵夫人のサロンでもこの作品が上演にかけられたようだが、この時にスキュデリーが何らかの役を演じたという説がある。スキュデリーはこの作品の成功に触発されて、『セザールの死』を制作した。同作はスキュデリー初の悲劇であり、『ソフォニスプ』ほどの大成功は収められなかったが、好評を収めた。この作品は後々になっても他の作家たちに影響を与えたり、優れた作品として称賛されている。『セザールの死』の後、『ディドン』を制作。この作品の舞台の豪華さは後々になってコルネイユの称賛するところであったが、あまり観客の反応は良くなかったために再演はされず、成功作ではなかったという〔Ibid. P.234〕。
1636年、スペインの小説や戯曲を出典として劇作を行う流行に乗じて、『自由な恋人』を制作した。大した成功は収められなかったが、当時のブルゴーニュ劇場の座長であったベルローズがこの作品を大変気に入ったという。1638年には『専制的な愛』を制作。この作品はスキュデリーの代表作となったが、スキュデリーが指定した悲喜劇としてではなく、悲劇として評価されてしまった。宰相リシュリューが大変好み、4回繰り返して見たという。この作品は同業者からも大変な好評を獲得した〔Ibid. P.235-6〕。
ちょうどこの前年、コルネイユが『ル・シッド』を上演し、大成功を収めていた。スキュデリーはこの作品の規則的な破綻を指摘した『ル・シッドに関する批判』を執筆し、いわゆる「ル・シッド論争」において規則を遵守すべきと主張する立場を採った。この論争の後『演劇の擁護』を出版している。この作品は俳優、ならびに演劇の地位向上を訴えるもので、特に悲劇は高貴な人々の趣味にかない、教育的効果もあるので、フランス文化の向上、国力強化に必要なものとして主張した〔Ibid. P.238〕。
1639年、再びオノレ・デュルフェの『アストレ』に題材を採って、『ウドクス』を制作した。翌年には『アンドロミール』を執筆したが、この作品は作者の言によれば、大成功したらしい。エピソードを多く盛り込み、予期せぬ出来事を連続させて、全編にわたって意外性のある筋を書くバロック的な手法を紹介した。『ル・シッド』を批判した経緯から、規則に忠実に従った作品を書かなければならないと考えていたようである〔Ibid. P.239〕。
同じころ、妹のマドレーヌの小説『イブライム』が1641年に出版された。タルマン・デ・レオーによれば、この作品は大筋、序文、献呈の辞、戦闘場面をジョルジュが担当したというが、実際にこの証言がどれほど正確かはわからない。ジョルジュはこの小説を題材として、2作品を書き上げた。『イブライム、あるいは名高きバッサ』と『アクシアーヌ』である。前者は長い物語の複雑な筋をまとめ上げる点に非常に優れており、成功したようだが、後者はそれほど成功しなかった〔Ibid. P.240〕。
最大の庇護者であった宰相リシュリューが1642年に亡くなった。同年に『アルミニウス、あるいは兄弟は敵同士』を制作。本作はブルゴーニュ劇場のレパートリーにも加えられるなど、成功したようである。ちなみに、この作品がテキストの現存する最後の作品である。1640年代以降の彼に、1630年代の栄光は見られない。人気を失って、彼の作品にはあまり期待がかけられないようになった〔Ibid. P.241-2〕。
1642年、ランブイエ侯爵夫人の働きかけのおかげで、マルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルドの要塞司令官に任命された。任命から2年後の1644年に、妹のマドレーヌとともに、ようやくマルセイユへ赴いたようである。この道中、アヴィニョンに立ち寄って、14世紀のイタリアの詩人・ペトラルカの恋人であったロールの墓に立ち寄り、詩を書いたという。ノートルダム・ド・ラ・ガルドへ到着した兄妹はその冬の景色の美しさに感動し、ここでも詩を書いたようだが、生活は友人のポール・スカロンが心配するほど苦しいものだった。期待していたほど収入が少なかったことに落胆したジョルジュはパリが恋しくなり、「王のガレー船の隊長」なる名誉職を得て、1647年8月にパリへ戻る旅に出た。この旅の途中では様々なことがあった。新聞にジョルジュがイゼール川で溺死したという誤報が載ったり、妹と小説の構想を練っていて、物語上での暗殺計画を実際の計画と勘違いされ、逮捕寸前まで追いつめられるなどしたが、どうにかパリに帰着した。この地方での3年程度の生活は、マドレーヌの『グラン・シリュス(''Le Grand Cyrus'')』に活かされている〔Ibid. P.242〕。
1648年に、フロンドの乱が勃発した際には、スキュデリー兄妹は貴族派、とくにコンデ大公の味方として振舞った。1650年にはヴォージュラに代わって、アカデミー・フランセーズの会員に選出された。マドレーヌといつまで同居していたかはわかっていない。ジョルジュの結婚の時期も諸説あり、1647年から1654年までパリにいたことくらいしかわかっていない。マドレーヌの名をより一層高めることとなった小説『クレリー(''Clélie'')』を手伝ったのは、1653年ころまでだと考えられている〔Ibid. P.243〕。
1654年、政争に巻き込まれ、失意のうちにパリを去った。1655年7月1日には、マリー・マドレーヌ・デュ・モンセル・ド・マルタンヴァと結婚し、彼女の裕福な父親の城で式を挙げた。彼女は妹のマドレーヌに劣らない知性の持ち主であったようで、彼女とともに詩を作っている。1660年に再びパリへ戻った。1663年にかけて刊行した小説『アルマイド、あるいは奴隷で女王』はシャプランのアイデアで、妻とともに完成させた作品である。1661年には『大ハンニバル』を制作しているが、あまり成功しなかった。1662年には息子ルイが生まれ、6月12日に洗礼を受けさせた。ルイは神父になったが、類稀なる美貌と知性の持ち主であったという。1667年5月14日、脳卒中の発作に襲われ、妻マリーに看取られて亡くなった。享年66歳〔Ibid. P.243-4〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョルジュ・ド・スキュデリー」の詳細全文を読む




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