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ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour,1593年3月19日 - 1652年1月30日)は、現フランス領のロレーヌ地方で17世紀前半に活動し、キアロスクーロを用いた「夜の画家」と呼ばれる〔宮下規久朗(『欲望の美術史』光文社新書 2013年p.32)。〕。 ラ・トゥールは生前にはフランス王ルイ13世の「国王付画家」の称号を得るなど、著名な画家であったが、次第に忘却され、20世紀初頭に「再発見」された画家である。残された作品は少なく、生涯についてもあまり詳しいことはわかっていない。作風は明暗の対比を強調する点にカラヴァッジョの影響がうかがえるが、単純化・平面化された構図や画面にただよう静寂で神秘的な雰囲気はラ・トゥール独自のものである。 == 生涯 == ラ・トゥールは1593年、当時まだフランスの一部ではなかったロレーヌ(ロートリンゲン)公国の小さな町ヴィック=シュル=セーユに生まれた。家業はパン屋だったという。少年時代や修業時代のことについてはあまり詳しくわかっていないが、1617年からは同じロレーヌ地方の町リュネヴィルに移住して活動し、1620年には弟子がいたことがわかっており、この頃には画家としての地位を確立していたものと見られる。この当時の画家の常として、ラ・トゥールも修業時代にはイタリアなどの外国を遍歴したものと思われるが、彼がイタリア等に滞在したという確かな証拠は見つかっていない。 1639年にはパリに出て、国王ルイ13世から「国王付画家」の称号を得ている。ラ・トゥールの代表作の1つである『イレネに介抱される聖セバスティアヌス』はルイ13世のお気に入りの絵だったという。わずかな記録からうかがわれるその人間像はあくせくと有力者に取り入り、税の支払いを拒むなど、吝嗇にして強欲そのものという説もある〔宮下規久朗(『欲望の美術史』光文社新書 2013年p.32)。〕。 その後リュネヴィルに戻り活動を続けるが、1652年1月、伝染病(当時ヨーロッパ全体で流行していたペストと伝わる)のため15日に妻、22日に子を相次いで失い、30日に画家本人も後を追うように死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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