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ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888年7月10日 - 1978年11月20日)は、イタリアの画家、彫刻家。形而上絵画派を興し、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた。 == 生涯 == *1888年、ギリシアのテッサリアのヴォロス(Volos)にイタリア人の両親のもとに生まれた。父エヴァリスト・デ・キリコは、鉄道の敷設を指揮する技師であった。 *1891年、弟アンドレア(のちにアルベルト・サヴィニオと名乗って画家・批評家として活動した)誕生。 *1900年、アテネの理工科学校に通う。この頃最初の静物画を描く。 *1905年、父死去。 *1906年、家族とともに、ギリシャを離れミラノを経てフィレンツェに移住する。 *1907年、ドイツのミュンヘンの美術アカデミーに入学。この頃、ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。 *1909年、ミラノに移住。 *1910年、フィレンツェに移住。弟はパリへ移住。最初の形而上絵画を手がける。 *1911年、パリへ移住。 *1912年、3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。 *1913年、パリのアンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品。詩人で美術評論家のギョーム・アポリネールに注目され、のちに親交をむすぶにいたる。初めて絵の買い手が現れる。 *1915年、第一次世界大戦が勃発。イタリア軍に召集されフィレンツェの連隊に入隊し、北イタリアのフェッラーラに駐屯する。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のキリコの風景画に影響したといわれる。 *1916年、詩人トリスタン・ツァラと親交をむすぶ。 *1917年、フェッラーラでカルロ・カッラと知り合う。同年カッラは、形而上絵画の作品をミラノで発表する。 *1918年、前衛美術雑誌『造形的価値(ヴァローリ・プラスティチ、Valori Plastici)』を創刊。詩的なテクストを発表。 *1919年、ローマで個展を開くが、美術史家のロベルト・ロンギに酷評される。ジョルジョ・モランディと知り合う。ルネッサンス絵画の模写を始める。 *1920年、「形而上芸術について」、「技法への帰還」などを出版。 *1921年、テンペラ画を描き始める。ベルリンの国立ギャラリーにて、大規模な「造形的価値グループ展」が開催される。 *1923年、ローマ・ビエンナーレに出品。フィレンツェ、ローマに住む。 *1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。第14回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。 *1925年、パリへ移住。 *1926年、シュルレアリストたちとの決別を表明。ニューヨークで初の個展。 *1929年、小説『エブドメロス(Hebdomeros)』出版。 *1931年、ミラノへ戻る。 *1932年、フィレンツェへ移住。 *1935年、ニューヨークへ移住。 *1938年、イタリアへ帰還。ローマに短期滞在し、ミラノへ移住。 *1942年、ミラノの家を引き払い、フィレンツェへ移住。 *1944年、ローマへ移住。 *1978年、90歳の誕生日を祝う。11月20日ローマで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョルジョ・デ・キリコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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